「ネット有名人」をニュース化する意味

 竹田圭吾さんの訃報を聞いて、なんとなく眠れなくなって作業に逃げているうちにこんな時間になってしまった。

 メディア人はステイタスが上がるだけ多忙で激務になり、そこから「降りる」という決断をするのはよほどの事情がないと成し得ないだろう。その最中に病魔に襲われた時にどのように振る舞うのか、竹田さんはそんなことも「語って」くれた。もちろん『Newsweek日本版』編集長やその後のテレビでのコメンテーターとしての批判精神もだけど、『Twitter』でクソリプに対して「ばーかばーか」と返す諧謔も含めて、これまで私淑させて頂いたことを感謝しつつ、今は安らかに睡られることを願うばかりだ。


 しかし。僕からは大きな存在に見えた竹田さんでも、業績と比較して世間的な知名度が十分だったとは思えない。『とくダネ!』を見ている人からは「何かうるさい人」という認識があったかもしれないけれど、ネット/メディア業界で「知らぬ人がいない」という存在とは乖離があったのではないか。

 新年早々、「ハーフは劣化が早い」発言で物議をかもした古市憲寿氏についても、同じことが言える。多くの視聴者には、せいぜい「なんで出演しているかわからない学者さん」という位置に見えるのではないか。もちろん、彼が上野千鶴子先生のお弟子さんだということも知らないだろうし、『絶望の国の幸福な若者たち』も読まれていないだろう。

 彼らだけでなく、ネット有名人の多くはネットで有名な存在に過ぎず、世間一般の認知が追いついているとはいえない。彼らが何らかの発言、時には失言をして光速で『togetter』や『NEVERまとめ』にまとめられたとしても、結局それはネットの事象に留まる。

 僕はここに、ネットメディアが彼らを「ニュース」の遡上に乗せる意味があると考えている。ひとまず「ネット」の「ニュース」としてポータルサイトやSNSで「話題」になっているということが大きくなることにより、ネットの外にも喧騒が届く可能性があるからだ。事実、古市氏の「炎上」はスポーツ紙⇒一般紙の順番に「ニュース」が伝播した。まぁ、ウエンツ瑛士さんという芸能人が絡むネタだったという事情もあるけれどね。

 ともすればネット民にとっては物足りなく感じるレベルのネタで、書く方としてもぶっちゃけ飽きているような人の発言であっても、しつこく取り上げていくことは、長い目で見れば「ネット有名人」=「有名人」といった図式に近づけるための作業だと個人的には考えている。そのネタを、過去の事例や他の人と紐付けてアウトプットして、より大きな「波」を起こせるかどうかに、書き手の技倆が問われる。見渡してみて、意外とそれができている人は多くない。

 そんなこんなで、「ネット有名人」をニュース化する意味はないように見えてあるんですよ、という話でした。まつゆうとかさきっちょはあちゅうとか挙げてピンとくる方が少数派。そういう荒野で、多くのネットメディアは戦わないといけない。


 

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