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政治はもっと人々の「ダルさ」を前提にするべきなのでは、というお話

 だいぶ前に西田亮介先生から「なぜParsleyさんはそんなに政治に関心あるのか不思議」的なことを訊かれたことがある。確かその時は「実は小学生の頃から政局マニアだったんです」みたいに答えたような……。
 記憶を遡ると、土井たか子氏が委員長だった日本社会党が躍進を果たして与野党の議席数が逆転した1989年の参院選。自民党の幹事長だった橋本龍太郎氏がタバコ(チェリーだったらしい)の煙を盛大にふかしながら「ちっくしょぅう…」と呟く姿を鮮明に覚えている。Wikipediaなどでは「ちくしょう」とか「ちくしょー」とか記されているが、自分の中では「ちっくしょぅう…」なんですよ! 現実を受け止めつつも怒りだったり悔いだったりさまざまな感情がないまぜになった表情がカッコよくて、「これが男の色気というものなのか」と餓鬼ながらに感じたものだった。

 その後、自民党の分裂や細川護熙内閣の誕生など、「政局」としてはダイナミズムのある展開が続いたこともあり、自分は選挙のことを「エンタメ」として見ていた。就職氷河期世代の当事者の一人として、90年代の政治環境に関しては、ひじょーに思うところがあるけれど、日曜日の20時から選挙速報にかじりつき、夜ふかしして討論番組を見るのは趣味だったと言っても差し支えないだろう。
 だからこそ、正直なところ「政治に関心がない」とか、「選挙に行かない」という人の心理が、本当に意味において分かってないという自覚がある。

総務省『国政選挙の年代別投票率の推移について』より

 実際、「若者の選挙への関心が薄い」というのは、自分が選挙権を得る前の学生の頃から課題意識として上がっていた。しかし、国政選挙の投票率の推移を見ると、世代問わず減少トレンドになっている。それにしたって、20代の投票率を見ると「これはひどい」と感じざるを得ないけれど……。
 とはいえ、平成10年(1998年)参院選で一時的に投票率が上がっているのは投票時間が18時までから20時までに延長されたのも理由のひとつで、平成16年(2004年)参院選では期日前投票制度が導入されている。投票への「障壁」は昔よりも下げる努力はなされてきたと見ていいだろうし、何らかのシステムやルールの変更は継続的に議論されるべきだと思う。

 さて。あくまで個人的には、「投票に行かない」という選択は政治行動として積極的に認められてしかるべきだし、投票率が低い選挙結果は選出された議員、政党、それによって発足する内閣の「信任」はそうでない場合よりも下がるから、別に躍起になって「選挙に行こう!」といったキャンペーンを張らないでもいいと考えている(ということを以前に記して燃えたこともある)。
 というか、「投票に行こう」みたいな運動は政治家当人や選挙管理委員会はもちろんのこと、メディアも発信するしさまざまな団体が壊れたレコードのように繰り返しているけれど、「それが実ったことありますか?」と小一時間問い詰めたい。そんなに投票率上げたいなら、投票を「権利」でなく罰則規定つきの「義務」にすればいい話だし、有権者の自発性に頼って「啓発活動」をするという時点で「上から目線なんだよ」と思わざるを得ない。

 ただ、思考実験として選挙制度のあり方や若年層の政治との距離感の遠さについて考えてみるのも面白いな、とも思う。きっかけは、西田先生がひろゆきさんと成田悠輔先生と討論した『日経テレ東大学』。

 個人的にひろゆきさんも西田先生も知人なのでニヤニヤしながら拝見したのだけど、成田先生の「民主主義オワコン論」が思いのほか興味深く、その後日に配信された『ABEMAヒルズ』での西田先生との議論も楽しめた。

 『日経テレ東大学』の方はいきなり成田先生がリモートで、ひろゆきさんがゲストに揺さぶりをかけるいつも通りの「論破」を仕掛けるも、西田先生も喧嘩腰で応戦していて、しかも本筋からすると「このパート要る?」というグダグタ感が凄まじいのだけど、おふたりを知る身としては、「どっちもいつもダルそうな人なんだけどな」と思いながら聞いていて(ひろゆきさんはともかく、おそらく西田先生は不本意だろう)、ピンと来るものがあった。

 自分の周りの同世代や年下の世代と会うと、大抵の人は「ダルそう」にしている。仕事にしろ学業にしろ、家事だって「面倒だな」と感じることをやらざるを得ないケースは生活をする上で多々あるし、場合によっては友人と会ったり自分の趣味の事を楽しむはずだったのに「気乗りしてない」状態のことも珍しくないのではないか。だいたい異常気象の日が増えていて、頭痛い日とか増えたし、睡眠不足だし、「まじだりぃ」いう感じになっている中、選挙とか行かないでしょ……。

 一方で、政治家の方々はもちろん、メディアでも表に出てくる人たちは断然エネルギッシュだ。そうじゃなければお仕事が務まらないし、ダルそうにしていたら各所で叩かれるから当たり前なのだけど、その前のめりな姿勢に「お、おう…」となる場合もありそう。

 つまり、選挙ひいては政治と距離があると感じるのは、多くの人の「ダルさ」に寄り添っていないからではないか。「ダルさ」を許容もしくはそれを前提とした政治システムなり社会なりが望ましいのではないだろうか……。

 ここで「じゃあダルさを許容する政治システムって何?」となるのだけど、成田先生が提唱している「無意識データ民主主義」だと、選挙という形式にとらわれずにひとりひとりの意見が集約されていくということは、現状のテクノロジーの組み合わせでも何とかなるんじゃないかと思わなくもない。
 しかし、西田先生が強調しているように、制度変更はさまざまなステークホルダーの間での合意形成が不可欠で、その作業は非常に「ダルい」。西田先生の言葉だと「そのダメさ加減も人間的」ということは本当にその通りだし、自分としてはそれが政治なり選挙なりの面白さだと感じているわけで。そうなると「伝え方」=メディアの課題になってくるんだよなぁ……。だるっ!

 いつもながらとりとめもなくなってきたのでまとめると。「ダルさ」を前提とした政治社会を実現するには成田先生提唱の「AI政治」の実装が最適解だけど、その制度変更のプロセスには「ダルい」合意形成を醸成するのが必要。どっちにしろ「ダルさ」からは逃れられないので、他人がダルそうにしていても生暖かい気持ちでいられるような人でありたいよね、という話でした。

 ちなみに。自分はもう期日前投票済ませました。前述のように自分は「選挙に行こう」なんて言わないけれど、デティールを見てみると「面白い」と感じることはいろいろ転がっているよ、ということは言っておきます。 


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