そこに魂はないかもね
僕が肩書きを「ブロガー/ライター」としてから、結構長い時間が過ぎた。とはいえ、「ライター」と電話口で名乗るのには慣れたとはいえ、未だに気恥ずかしさは残っている。インタビューやレポート取材で、「さすがプロですね」と褒められることも少なくないが、当人としては一体何が「プロ」なのか、さっぱり分かってなかったりする。
ところで、僕がまったく気づかないうちに「ブロガーフェスティバル」というイベントがあったらしい。以前ならば真っ先に食いついて、予定を合わせて参加していただろうことを考えれば、僕の電探も錆びついたものだな、と思わざるをえないのだけど、どうしてもアーカイブを追う気力が沸かない。
そのイベントと関係があるのかないのか、よくわからないところではあるのだけど。Facebookのタイムラインをぼんやり遡っていたら、「ブロガーのライター宣言は、アイドルのアーティスト宣言みたいなもん」というフレーズが目に留まった。ふーむ。僕の知る限りで、ブロガーが「ライターになります」と名乗った人というのはあまり思いつかない。ブログを書きつつ、ライターの仕事も請け負います、的な人は僕も含めて何人かいただろうけれど。
自分のことに限定するならば、ある時期まで僕は肩書きが「ブロガー」であることにこだわっていた。別に専門的な分野があるわけではなく、特定のジャンルに特化しているわけでもない僕のような存在は、他の何者でもない、という思いがあった。仮に10年前に紙媒体でお仕事しているのであれば「コラムニスト」という肩書きが通用しただろうが、今その名に値する人は数えるほどしかいないし、当然その中に僕は含まれていない。となると、僕って「ブログを運営している人」以外には何も持たぬ者だ、という意識がそうさせた、といえる。
だから、お仕事とはいえ「ライター」を名乗るのは気恥ずかしくてたまらなかったし、その瞬間を憎んでさえいた。書く記事に、わざと素人っぽい書き方を潜ませて、そこにツッコミが入るのを待つといった悪戯をしたこともあった。
だが、これから売文一本で食べていかざるを得ないと覚悟して、「ライター」のお仕事を増やす過程において、魂も売った。僕のいうべきことは「そこ」にはない。事実、あるいはオーダーに沿った文を淡々と綴る。たまに主観めいた一文が入ることがあって、それに嘘はないとしても、僕の見解の「すべて」が込められることはない。見方によれば不誠実だが、そのような文が求められていたことも確かだ。
とはいえ、僕はブログを辞めたわけでもないし、Yahoo!個人はブログに近い書き方を敢えて採用している。やはり僕の魂の置き場はブログだし、「ブロガー」であること以外に何もないというのは変わっていないからだ。未だに、僕が書くエントリーはどこから切っても僕らしいし、そういったものをたとえ一ヶ月に一回だけになったとしても、続けているということが僕を「ブロガー」たらしめている。
だから。毎月数十本書く僕の記事の多くは、実のところがらんどうで魂がないのかもしれない。一方で、「そんなことはないよ」と僕の痕跡を探せてくれる読者の存在を、渇望する気持ちがどこかにあるのも、親指の爪の隅っこを噛みながら認めざるをえないのだ。