メディア関係者の思考法とTwitterの相性が悪すぎるというお話
このGW中にメガネを買ってもらった。もともとガチャ目で左の視力が0.03という有様だったのだけど、最近は特にPCなどの画面から外に向ける時にかなり霞んでしまっていたので、ブルーライトカットを入れた作業用のものが欲しいな…と思っていたところ、家族から誕生日プレゼントにと言ってもらったのだ。かけてみると、確かに画面が見やすくなって、長い時間作業した後がラクになった。
なかなか自分の身体への投資を後回しにしがちではあるのだけど、今後も生きていくにあたって、セルフケアのこともよく考えていかないと……と改めて感じているところだ。
さて、アメリカ在住歴の長い朝日新聞の大島隆氏が、Twitterで「日本のアルコール依存の実態は(米国より)さらに深刻では」とツイートして物議を醸していた。
これについては、自分も大島氏の記事を出してしまっているし(参照)、 実際に酒類の国内販売数量は減少傾向だという発表もある。なので、大島氏の「仮説」は印象論だという批判は免れ得ないだろう。
しかし、大島氏がこのような仮説を立ててツイートをしてしまう心理が何となくではあるけれど分かる。だから、内容には同意できないにせよ、今回のケースはミクロな視点とマクロな観点がないまぜになってしまったが故の事例として捉えるべきだと思う。
というのも、自分があるワークショップに参加した時、新聞社で長くデスクとして活躍されている方が、一通り発表を聞き終えた後に、ぼそりと呟かれた言葉が、頭を離れないからだ。
「それは、本当にそう思って言っているのだろうか?」
その発表は自分が取材して見聞きしたものを発表したものはなく、別の参加者のものだったが、それでもドキっとさせられるには充分だった。自分も人に話を聞く際に、建前と本音のどちらか、ということはもちろん気にする。気にするが、それよりも発せられた言葉をストレートに出すということを優先してしまう。その人がその言葉を発したということは「事実」だからだ。とはいえ、聞き方が良くなかったのではないか、踏み込みが甘いのでは、といった疑念が残ったケースも多々あるというのが正直なところだろう。
もっとも、自分自身だってセンシティブな内容のインタビューだと「あ、これは本音で話をしていないな」と感じた時は、質問の仕方を変えたり、しばらく経った後でもう一度同じ質問を繰り返してみたりするといったテクニックを弄することがある。言外に含むところを感じたならば、「そこをもう少し詳しく」といった聞き方をする。ただ、場数と相手の懐に入る術という面で、やはり新聞社の人は上手だと感じざるを得ない、と痛感させられたのだった。
これと同じことは「データ」にも言える。統計で「こういう数字が出ています」というのはファクトとして読者に伝えるべき事象だ。しかし、その統計が本当に実態が伴っているのか、といった疑念は抱いておくべきだとも思う。「販売数量が減った」や「アルコール健康障害に悩む人が減った」というのは事実として、ものすごく飲む人とまったく飲まない人で二極化されている結果として、社会で生きていく上でより深刻な人が存在するという仮説が、まったくの絵空事であるとは言えないだろう。
……といったことを考えて、課題意識を持つというのが、新聞をはじめとするレガシーメディアの現場で要求される思考だということを、前述の「本当にそう思って言っているか?」という問いに凝縮されているように、自分には思える。そういった追求の仕方を、現状ではネットメディアで恒常的にやっていく体制にはなっていないし、個人として実践するのは難しい。とはいえ、見聞きしたことに対する「本当か?」という問いかけは常に頭の片隅に置いておくようにしている。
ただし、その「仮説」なり「課題意識」なりを、思いついて即ツイートするのは誤解を招く可能性が高い。当然ながらディスカッションを経ているものではないし、情報の量や精査が足りていない状況で出すことについて、何らかのメリットがあるとすれば、一般の人の「空気感」が知れるということぐらいだろう。だから、こういったことは「局内なり編集部なりでやってください」という話になるし、「名前」や「看板」で仕事する人間のTwitterの使い方としては悪手だろう。
朝日新聞は基本的に記者がTwitterアカウントを持っている。これは新聞社勤務の記者に限らず、「ツイートをする」行為の果実とリスクを天秤にかけて、後者の比重が大きくなっているように感じる。
大島氏のツイートのように、個人レベルのミクロな視点をもとに、マクロな事象を論じようとするのはネットにおいてハレーションが大きい。このあたりを理解しない限りにおいて、Twitterをするのはやめておいた方が無難だとは思う。思うのだけど、それではネットがますます面白くなくなるなぁ、というのも正直なところでもあったりするのだ。