税金と土地の問題をもう一度考えてみよう その7
執筆:ラボラトリオ研究員 杉山 彰
土地って何?
税金の問題は、土地問題と密接にリンクしています。そして土地問題は「所有と利用」の問題へと相転移します。わが国の税の始まりは「貢(みつぐ)」であり、「租・庸・調」の「租」は「貢(みつぐ)」が発達したものでした。水田の面積に応じて納めなければならない一定量のお米、それが税金でした。我が国は、701年の大宝律令の制定によって天皇を頂点とする律令国家が成立し、土地(水田)はすべて天皇が所有する公地となり、律令国家の成立以前に土地(水田)を私有していた各地の豪族は天皇が任命する貴族となり、それぞれの位に応じて経済的特権や水田(職田)を与えられ、公地公民制による班田収授法が施行されたのでした。
貴族といえども土地の所有は許されず、天皇から土地の支配権を許諾されるようになったのでした。貴族は土地の管理を行うことで公民から「租・庸・調」を徴収する役割を担うようになったのでした。有り体に言えば、天皇である国家に払う税を国税、貴族に払う税を地方税として律令国家が成立したのでした。しかし、この律令制は、不思議なことに唐の律令制を模倣したのにもかかわらず、天皇は国政には直接参加することはなく、神祇官の長として祭礼を司る役割を担い、国政は貴族の合議機関である太政官が、その役割を担っていました。
「君臨すれども統治せず」という我が国特有の天皇制は、天皇制が誕生した当初から、今日と同じような性格を有していたのです。以来、1,400年以上の長期にわたって、我が国は万世一系のもとに王朝が断絶することなく天皇制君主国家としての歴史を歩んできたのです。また、701年に制定された班田収授法は、その後、自らが開墾した土地は一定期間所有できるという「三世一身の法」が制定され、この法律もやがて「墾田永代私財法」が制定され、なし崩しに土地の所有が「荘園」という形に変わって、私有化されていったのでした。「荘園」は鎌倉時代になると領地と名前を変えて武士が所有する、もしくは管理・運営する土地になりました。「一所懸命」という言葉が生まれたのも、土地の所有と密接に連関しているのです。
いずれにせよ荘園は、貴族社会が衰亡するともに実質的に荘園を自ら開墾した人たち、荘園の管理を任されていた人たちが支配するものになりました。それが武士集団の発生の起源といわれています。こうしてわが国において土地は武士に所有されるものになったかのように見えますが、本質は、所有ではなく利用権が確立されただけでした。一時的に、鎌倉幕府から「安堵」されていただけでした。
土地は誰のもの?
わが国は鎌倉以後、国家としてのありようや制度が大きく変わりました。土地に対する考え方も大きく変わりました。しかし実質的には、土地の所有者は天皇であり、摂関政治を司っていた貴族であり、時の将軍といえども土地は天皇、もしくは貴族から一時的に預かっている、管理・運営を任されているという構図が、頑として存在していました。公地公民制を基本とする律令制が国家の中心に位置していました。国家を実質的に運営していく太政官の役割が、藤原氏に代表される摂関貴族から、鎌倉幕府になっただけのことでした。
そして、さらに興味深いことには、鎌倉幕府の後半になると、武士に安堵されていた土地が商取引の対象となっていったのでした。理由は相続による所領の分割による細分化でした。鎌倉幕府の初期の頃は、武士たちは自ら開墾した土地を私領として増やしていくことが可能でした。もしくは戦に参加して手柄を挙げれば報奨として新たな土地を恩領として加増されることもありました。自ら開墾した私領と幕府からの恩領から収穫されるお米で一族郎党を養っていくことが可能でした。しかし、鎌倉幕府の後半には、開墾できる土地も少なくなり、戦も少なくなり、とくに文永の役、弘安の役による二度の蒙古襲来による戦いは、負けはしなかったが勝ちがない、新たな領土の獲得がない守りの戦だったこともあり、十分な恩賞が見込まれなかったのでした。
逆に、九州出兵の費用、博多湾に築いた土塁による防御陣地の構築費用がかさみ、鎌倉幕府はもちろん、鎌倉武士たちの財政は急速に悪化したのです。そしてそれに輪をかけたのが、相続に伴う所領の分割でした。この問題は、現代社会でも同じ現象が起きています。相続が発生するたびに、資産が分割され、財政が困窮していくという状況です。鎌倉武士に降りかかった相続の問題は深刻でした。本来ならば、分割された一族郎党の相続人の一人一人が、新たに土地を開拓して私領を増やしたり、さらには戦に出陣して手柄を挙げることにより恩領を手にすることにより、一族郎党全体が繁栄していく図式を描くことが可能でした。それが難しくなっていったのでした。その結果、土地の売買や、土地を担保とした質入れが発生しました。購入したのは、裕福な武士であり、商人であり、無尽を運営していた農民や、寺社でした。そして驚くべきことにこの時代の利息は年利100%の複利計算で行われていた貸し付けもあったようです。
鎌倉時代に制定された貞永式目には「相伝の私領をもって、要用時沽却(売却)せしむるは定法なり」と規定されていました。とはいえ、土地を担保に年利100%の複利で借り入れをしたのでは、たちまちのうちに返済不能となり、土地は貸し主に差し押さえられ、土地を持たない武士(無足)が多数生じたようです。「一所懸命」で所領安堵を前提として成立していた鎌倉幕府は、所領を失った武士の増加と共に衰弱していったようです。この傾向は時代が変わって、室町幕府になっても変わることがなく、幕府としては徳政令を多発して救済措置を講じましたが焼け石に水のようでした。事実、鎌倉幕府の時代には、土地の所有争いの調停、もしくは売買に伴う訴訟裁判が幕府の機能の半分以上を占めていたようです。 このようにして我が国における土地の多くの所有者は、武士ではなく、武士以外の貨幣経済で成功を収めた商人や、無尽で土地購入した一般庶民たちが所有するようになっていったのでした。
ここに至って、土地を所有していたのは武士ではなく、武士は土地を支配していただけで、支配していた土地からの年貢の徴税権を有する存在となっていったのでした。徳川末期、倒幕が成功したときに、徳川慶喜は、大政奉還を行い、天皇に政(まつりごと)を返還しました。徳川幕府の天領も大名の藩領も、その後、版籍奉還が行われ、土地と人民のすべてが明治政府に返還されたのでした。そして、その明治政府の頂点には天皇が存在していたわけです。明治新政府において廃藩置県が、それこそ一夜で実現したのは、徳川幕府をはじめ、当時の藩主であった大名も土地を所有していたのではなく、土地から収穫できる耕作権を権利として得ていたからです。その権利さえ踏襲できるのなら、土地そのものへの執着心は無かったといってもいいのです。わが国の歴史において、古来、土地は所有するものではなく利用するものでした。鎌倉時代に生まれた「一所懸命」も、一所に命を懸けたのは、土地の利用権でした。支配権といってもいいでしょう。それが証拠には、武士社会では「所替え」がたびたび行われたのです。御家人に「所替え」を命じた鎌倉幕府も徳川幕府も、その所領、天領、幕領を問わず、天皇から一時的に預かっているにすぎなかったのでした。それが戦後、米国による占領政策により大きく変化してしまったのでした。(つづく)
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【杉山 彰(すぎやま あきら)プロフィール】
◎立命館大学 産業社会学部卒
1974年、(株)タイムにコピーライターとして入社。
以後(株)タイムに10年間勤務した後、杉山彰事務所を主宰。
1990年、株式会社 JCN研究所を設立
1993年、株式会社CSK関連会社
日本レジホンシステムズ(ナレッジモデリング株式会社の前身)と
マーケティング顧問契約を締結
※この時期に、七沢先生との知遇を得て、現在に至る。
1995年、松下電器産業(株)開発本部・映像音響情報研究所の
コンセプトメーカーとして顧問契約(技術支援業務契約)を締結。
2010年、株式会社 JCN研究所を休眠、現在に至る。
◎〈作成論文&レポート〉
・「マトリックス・マネージメント」
・「オープンマインド・ヒューマン・ネットワーキング」
・「コンピュータの中の日本語」
・「新・遺伝的アルゴリズム論」
・「知識社会におけるヒューマンネットワーキング経営の在り方」
・「人間と夢」 等
◎〈開発システム〉
・コンピュータにおける日本語処理機能としての
カナ漢字置換装置・JCN〈愛(ai)〉
・置換アルゴリズムの応用システム「TAO/TIME認証システム」
・TAO時計装置
◎〈出願特許〉
・「カナ漢字自動置換システム」
・「新・遺伝的アルゴリズムによる、漢字混じり文章生成装置」
・「アナログ計時とディジタル計時と絶対時間を同時共時に
計測表示できるTAO時計装置」
・「音符システムを活用した、新・中間言語アルゴリズム」
・「時間軸をキーデータとする、システム辞書の生成方法」
・「利用履歴データをID化した、新・ファイル管理システム」等
◎〈取得特許〉
「TAO時計装置」(米国特許)、
「TAO・TIME認証システム」(国際特許) 等