ゆらぎ 15 -あまりにもあいまいな(続編) 自己と他者/ スピリチュアルの師との対話(その一)
スピリチュアルの師と呼べる人が2人いる。このこと自体「奇跡」と言っていい!
そのうちのひとり、Mさんは、reikiの治療師。最初は、企業内組合執行部のJさんに紹介された。Jさんの他にも組合員の数人がMさんのところに通っていた。乳癌のJさんに「這ってでも出社するように」強要した某政党派労組の方針に反対し、ひとりで裁判提訴してからは、職場内で孤立しないという巧の戦略も確かにあったが、Mさんとの交流は、実際には、それ以上の親密さになっていった。
末期癌の患者たちが最後の拠り所としてMさんを頼ってきた。Jさんも、そのひとりだった。Mさんのreiki治療を受けた後、「自分がこんなに元気なんだって思えるんだ。」とJさんが言っていた。
某新興宗教の幹部でもあるMさんだったが、わたしたちには全く勧誘はなかった。
余命1年と言われた患者が、Mさんの治療で、2年、3年と延命すると、Mさんは「神様!」と言われるが、逆の場合には「人殺し!」と罵られる。
Mさん自身も、大変な人生で、親族の大事件が起きた時、巧はちょうどMさんのreiki治療を受けていて傍にいた。親戚からの電話に、Mさんは暫く放心状態だった。その場にいた巧には、その電話の内容を伝えた。確かに、悲惨な内容だった。それ以降、Mさんは誰ひとり、そのことを話さなかった。巧も誰にも話さなかった。
スピリチュアルで、それなりのひとというのは、こういう想像を絶する体験をすることがあるのかもしれない。
Mさんは、某政党派労働組合の活動家たちと対立して離脱して、原則的労働運動をする巧と、某政党派労働組合のメンバーとの間をつなぐ役目を果たしてくれた。だから、両方の意見を聞き、状況を知り尽くしている。その上での巧とMさんとの対話だった。
巧のとった行動を「すばらしい!」とMさんは賞賛した。某政党派労働組合のメンバーの中にも、数人、同じように高く評価するひともいた。
Mさん・・「正しいことをしても、みんなが正しいと思ってくれるとは限らないよ。それが、みんなのために本当に良かったのかどうかも分からないのかもしれないねぇ。」
巧は、正直ショックだった。全面的に巧の味方だと思い込んでいたからだ。いや、味方は味方なのだろう。
しかし、少し落ち着くと、Mさんの言葉は、巧の心の奥底に残り続けた。ずっと、自問自答し続けた。いまだに、巧にとっての「正解」は分からない。
確かに、巧の「闘争」の原点は、会社から酷い組合潰し攻撃を受けていた企業内組合執行委員のひとりJさんの涙だった。しかし、巧が単身決起した後、Jさんも某政党派の上部組合本部の指示通り、彼らが言うところの「過激派!」巧の排除攻撃に加担した。
それでも、結局、会社の組合潰し攻撃に対しては、巧が完全勝利した。単に、地裁→高裁→最高裁の全面勝利のみならず、組合潰し攻撃した会社の中に強固な地域労組を確立し、職場の労働者の雇用も実際に守ったし、地域の中小零細企業の労働者の雇用も守ったのだから、「階級的」にも巧の勝利は明らかだった。
新入社員たちは、そんな巧とも分け隔てなく交流したが、彼ら彼女らにとっては、そんな「過去」の「いざこざ」はどうでもいいことだったのだろう。むしろ、巧たちが勝ち取った「年休」の権利、「育児休業」等の諸権利も、若者たちは、当然のことと思っていた。それは、それでいい。巧たちは、自分たちの「闘争」が誰からも評価されなくても構わなかった。それこそ、「闘争の不利益は、すべて活動家に、闘争の利益は、すべて大衆に」(山谷争議団)なのだから。
それに、巧たちの闘争は、ドイツ人経営陣と、日本人労働者との人種差別との闘争でもあったのだから、日本人としての矜持をドイツ人経営者に示した闘争でもあった。これに関しては、巧の仲間の組合執行委員たちによると、「それは、あまり強調しない方がいい。」とのことだった。彼らも、所詮「階級闘争」派なのだろう。
それ以前に、人間としての尊厳を守った闘争でもあった。その自負と矜持は巧にある。
それでも、Mさんの問い「正しいことをしても、みんなが正しいと思ってくれるとは限らないよ。それが、みんなのために本当に良かったのかどうかも分からないのかもしれないねぇ。」は、巧の深層を侵食し続けた。
要は、巧の自己満足なのかもしれない。巧の幼児体験から来る自己満足に過ぎないのかもしれない。それは、それで、巧はよかった。
巧が問いたかったのは、それでも、「本当に自分の決断と行為はよかったのか?」だった。巧の周囲にたくさんいる「活動家」たちのように、100%の「確信」のようなものは巧にはなかった。
Mさんのことばが、巧に「ゆらぎ」を起こした。この「ゆらぎ」は、時間が経つにつれて、次第に大きく大きくなっていった。
この「ゆらぎ」は、世界情勢にまで拡がるものになった。それ程、2000年以降の世界は、異常かもしれない。
人間の尊厳を守る「闘争」・・立派なことだろう。非難の余地もないことかもしれない。それでも、両者が、その『人間の尊厳を守る「闘争」』という『正義』を振りかざして「憎しみの連鎖・悪循環」「終わりなき戦い」が頻発する世界は、これで本当にいいのだろうか。それらのロジックを整理しなくてはならないのかもしれない。
(写真は、エルサレム 嘆きの壁/ 撮影 大塚櫻)