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ゾクチェンとカミュ「シーシュポスの神話」の『すべてよし』

1.「多様な現象の本性は、不二だ。」
2.「ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。」
3.「あるがままのものを定義できる概念などありはしない。」
4.「にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。
5.『すべてよし』
6.「一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、」
7.「あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。」
・・・六行の金剛の詩・・ゾクチェンの教え

-2a.「私は、『すべてよし』、と判断する」とオイディプスは言うが、これは[不条理な精神にとっては]まさに畏敬すべき言葉だ。」
3.かれ(シーシュポス)もまた、『すべてよし』、と判断しているのだ。」
・・・カミュ「シーシュポスの神話」

カミュ「シーシュポスの神話」を読んでいて、はっとした個所がありました。『すべてよし』です。

"rDzogs-chen Vipassana Meditation" 「ゾクチェンヴィパッサナ瞑想」(note記事”「rDzogs-chen Vipassana」の意味” 参照)のキーワードでもあるからです。

前掲の「六行の金剛の詩」は、なかなか難しい内容と表現かと思いますが、「シーシュポスの神話」で、カミュが思索した『すべてよし』とつながるものを感じました。

-2a.「私は、『すべてよし』、と判断する」とオイディプスは言うが、これは[不条理な精神にとっては]まさに畏敬すべき言葉だ。」とカミュは言う。

3.「かれ(シーシュポス)もまた、『すべてよし』、と判断しているのだ。」とも言う。

つまり、カミュによると、オイディプスもシーシュポスも「不条理な精神」の徴表ということでしょうか。つまりは、人間も含む「存在者」ということでしょうか。

「不条理な精神」の最たる人間にとっても(は)、ゾクチェンの教えである「六行の金剛の詩」も「畏敬すべき言葉」ということなのでしょう。
私も何十年になるでしょうか。この言葉を「畏敬」し始めてから。

世界の悲惨な状態に感情移入する私に、「あなたが心配しても何も変わらないし、変えられないでしょ?!だから、思い煩わされず、心静かに暮らした方がいい。」と言ってくれた人がいました。・・・レベル(1)

-2a.「私は、『すべてよし』、と判断する」とオイディプスは言う・・レベル(2)
3.「かれ(シーシュポス)もまた、『すべてよし』、と判断しているのだ。」・・レベル(3)

上記のレベル(1)と、レベル(2) 、レベル(3)は、似て非なるもの、正反対でしょうか。
レベル(1)は、諦め、俗人の判断停止、降参・・・でしょうか。この反対の表現に、ホポノポノの「世界で起きることは、すべて自分に責任がある。」があるのでしょうか。
レベル(2)は、宿命の自覚、運命的な諦念とでも言うのでしょうか。
レベル(3)は、過酷な運命に立ち向かって積極的に行動する者の宣戦布告とでも言うのでしょうか。つまり、

-6a.「この言葉は、運命を人間のなすべきことがらへ、人間たちのあいだで解決されるべきことがらへと変える。」・・のでありましょう。

1.「多様な現象の本性は、不二だ。」
2.「ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。」
3.「あるがままのものを定義できる概念などありはしない。」
4.「にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。
5.『すべてよし』
6.「一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、」
7.「あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。」

だから、この、「六行の金剛の詩」ゾクチェンの教えは、「ゾクチェン」という、「挑戦」への宣戦布告なのです。「あるがままで完全な境地の中にとどまること」は、「心の作り出す限界の彼方」から投げられた「不条理な」『問い』を巡る、「心」と「世界」の諸「現象」との、一瞬たりとも休みなき「戦い」なのですから。
写真は、アフロディーテ(愛と美と性の女神)誕生地
ΑΦΡΟΔΙΤΗ, Ἀφροδίτη, Aphrodītē
ΑΦΡΟΔΙΤΑ, Ἀφροδιτα, Aphrodita(アイオリス方言)
Πέτρα του Ρωμιού στην Κύπρο
ペトラ・トゥ・ロミウ/ キプロス
22.Oct.24

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