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(小説) ゆらぎ(前編) 6.死線を彷徨う

6.   死線を彷徨う

                       「わたしは 誰でもない。また、ないでしょう。      
              存在するには あまりに 小さく、
             未来とて やっぱり そうでしょう。」
                                                       リルケ「孤児の歌」

 炭住の共同長屋生活は、母と子にとっては苦痛そのものだった。

 相変わらず、三池争議のさなか、三池炭婦協の『闘争』は激しく続いていた。半強制のデモ、集会に母俊子はほとほと嫌気がさしていた。

 長屋では、隣の部屋との境は、ベニヤ一枚で仕切られただけであった。三交代の炭鉱夫の息子と母親が住んでいた。炭鉱夫の息子は、昼間眠ることもあった。

 巧が遊んだり、昼寝したり、人間が生活すれば音は出る。

しかし、母俊子は、神経質に隣の母子に気を遣い、ストレスは極限に達していた。

隣の息子は、実際はパチンコに行っていたにもかかわらず、母親が帰って来ると、「隣のこどもがうるさくて寝られなかった。」と愚痴をこぼしているのを、母俊子は聞いていた。
母俊子は過敏に反応し、時には、ヒステリックに巧を叱った。夜泣きしたり、昼寝から目覚めて泣き出した巧に布団を掛けて、泣き声が隣に聞こえないようにしたこともあった。

 そんな環境で、巧は酷い肺炎を患った。

原因は、それだけではないのかもしれない。唯でさえ、炭鉱コンビナートの直ぐ近くの炭住なので、いつも悪臭がしていた。煙突からは、昼夜休みなく煙が出ていた。黒い煙なら、まだかわいいが、黄色や赤色の煙も出ていた。常に、独特の悪臭がしていた。そんな炭住の環境も悪い影響を与えたのだろう。

 巧は、高熱を出して、炭鉱の病院に緊急入院した。
・・死線を彷徨ったそうだ。たまたま、抗生物質の新薬がサンプルとして来ていて、それで助かったと母が言っていた。この時の病院での記憶は、巧にはない。

 ただ、退院してから炭住の部屋で寝ていた時、何故か、無性に自分自身がこのまま死んでしまう気がした。その時は、怖くはなかった。その感情だけは何故か、今もずっと記憶に残っている。

実際、母に「ぼく、おとなになるまで生きられるの?」と尋ねたとのことである。母は、へんなこと言うこどもだと思ったとのことである。

それはあくまでも自分自身の死のことである。

病院で「死」と隣り合わせだったのだろうし、他者の「死」と出遭うことがあったのかもしれないが、巧の記憶には残っていない。


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