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(小説) ゆらぎ(後編)14.山登りの「友情」(4)と「活動家」
14.山登りの「友情」(4)と「活動家」
共産党系労働運動でも新左翼派でもない地域合同労組および争議団の仲間の労働運動は、実は、日本の労働者の実像を映していたのかもしれない。大きな労組組織からも見放された極限状態の労働者たちとの関わりは、巧の労組観、人間観を根本的に変えた。
某有名大学付属病院の敷地内で焼身自殺した障害者の労働者、某大企業の職場で自殺した労働者など、報道すらされない事例が本当は少なからず実在する。
現場によっては、機動隊が出て来る職場もあった。仲間が公安警察に逮捕・拘束される事例も頻繁にあった。その度に、巧たちは超多忙を極めた。
そんな中、登山仲間Sからアキちゃん追悼のネパールヒマラヤトレッキングのお誘いがあった。
数週間も、労働運動の現場を空けるからには、当然、執行委員たちの了解が必要である。Sの状況、アキちゃんの他界も説明して、友人Sに寄り添いたい趣旨の説明をした。
普段、他者である労働者に寄り添っている活動家たちも、「そういう趣旨で一緒に行くのは、自分がSの立場だったら俺は嫌だな。」という意見があった。
某争議団の熾烈な闘争の中で、「運動の利益はすべて労働者に、不利益はすべて活動家に」というモットーがあった。巧は、このモットーにとても納得していた。
そもそも、巧の会社での労働運動への関わりは、巧にとって、まさにそのモットーそのものだからだ。
これは、実は深い問題である。しかし、Sの現実の問題があるので、執行委員たち合意の上で、ネパールヒマラヤトレッキングが実現した。
Sは、既にカトマンズに滞在していた。アキちゃんと一緒にネパールヒマラヤトレッキングをした時のネパール人ガイドMと一緒に空港で出迎えてくれた。
丁度その日は、ヒンズー教の蝋燭祭りで、線香の煙で燻された夜のカトマンズを寺院巡りした。少なくない野良犬が怖かった。噛まれたら大変なことになるだろうから。
山屋専用のホテル泊で、宿泊料がなんと3ドルという格安だった。ちゃんと、シャワー付きベッド付きの部屋だった。整った部屋だったし。
翌日、国内線の飛行機でポカラに移動した。
湖で、欧米の若者たちがカヌー競技をしていた。カトマンズとは全く違った落ち着いた町だった。なんと言っても、ネパールヒマラヤのアンナプルナが感動的だった。
翌朝、ホテルで、夜明け前にネパール人ガイドMが巧を起こしてくれた。夜明けのアンナプルナを撮った。清々しい空気の中で撮りまくるアンナプルナは最高だった。
チベット難民部落を通って、Sとネパール人ガイドMと、巧の3人のトレッキングがスタートした。Sがアキちゃんと歩いたコースだった。麓の村、部落の野良仕事の風景は最高だった。刈り取った麦を手作業で脱穀していた。水路には小さな水車が廻っていた。段々畑が、ぎっしりあった。美しい風景だが、急斜面も耕作しないといけない貧しさが真の事情だろう。
Sは、巧のために、ゆったりした日程にしてくれていた。初日は特に、午後早めに着いた山小屋で、ビールを飲みながら、ゆったりした。
それでも、翌日からは、ガンジス河の源流の急流が流れる谷に下って、また登り返すアップダウンは巧にはきつかった。だが、ガンジス河の源流であるということ自体にひどく感動した。
登山道は、石が敷いてあり、整っていた。山小屋も、観光に力を入れているせいか、とても美しかった。フランス人女性グループが、最初にトイレをチェックして宿泊するかどうか決めているシーンに何度か立ち会った。80年代の日本の山岳の山小屋の酷さを知っているが(垂れ流し)、ネパールの山小屋の美しさは格段の差があった。
ネパールの山小屋では、時間の感覚を調整しないといけない。注文してから、かまどに火を入れ、材料を刻み、調理に1時間以上掛かるのはざらだった。しかし、手作りのチベット料理は最高だった。
Sは、アル中だった。
ネパール人ガイドと巧は、早々にベッドに行ったが、Sは、他の登山客たちと遅く迄酒宴だった。大きな声に巧は起こされ、Sの声が聞こえてきた。
巧が、わざわざ日本から駆け付けてくれたことが、よっぽど嬉しかったらしくて、しきりにそのことを自慢していた。巧のことを「あいつはいい奴だ。」と。そして、気前よく他の客たちに奢っていた。
泥酔状態で部屋に帰って来てからがまた大変で、典型的な酔っ払いだった。トイレに行くのにドアを開けられないらしくて、その場でした。ガイドも巧も本当は起きていたが、寝たフリしていた。
巧は、内心、アキちゃんも大変だっただろうなと思った。よく、こんな奴と一緒にトレッキングしたよな、と思った。断崖絶壁の上にある山小屋には柵もないところも。泥酔したSが落ちないかハラハラした。
トレッキングコースの終わり頃、小さな部落で休憩していると、日本人男性が一人で、ネパール人ガイドと、数人のボッカを連れて、休憩しているのを見かけた。
見覚えのある顔だった。巧が、まだ企業内組合にいた頃に何度か会ったことがある共産党系労働運動の活動家Kだった。
巧は、そんなことはすっかり忘れて、その「知り合い」に笑顔で話し掛けた。同じニコン製のカメラでアンナプルナ山群を撮っているので、話が弾んだ。Sも加わって盛り上がった。お互いに無事を祈りつつ別れた。
ポカラに戻ってから、巧は一人で急遽カトマンズに帰ることになった。国内線飛行機がストライキで、その上、未だ王政のネパールだった頃で、カトマンズへの最短道路を毛沢東派のゲリラが占拠しているというので、ポカラからいったんインド国境近くまで南下してから東に向かい、カトマンズに向かって北上するという大回りの道を通ってカトマンズに帰った。カトマンズから日本に帰る飛行機が日程固定のチケットだったのだ。
Sとガイドは、時間の制約がないので、ゆっくりできた。ポカラで、ネパール人ガイドが車を手配してくれた。山岳地帯のデコボコ道を走った。途中、路線バスが崖から落ちているのを目にした。180度ひっくり返っていて、バスの上半分が完全になくなっていた。事故直後を想像すると怖くなった。道を人が何人も歩いているのに、直ぐ横をネパール人運転手が運転する車は、もの凄いスピードで走り抜けた。それも怖かった。
カトマンズまで、残り1時間くらいのところで、車がエンストした。巧は焦った。そのネパール人運転手は、ボンネットを開けて、ガソリンを口に含んで、ストローのようなものを使って、プラグを外してエンジンの燃焼室に直接吹きかけた。それで、なんと、エンジンが掛かった。ネパール人運転手を凄いと巧は思った。無事、飛行機の出発時間に間に合うようにカトマンズに着いた。
日本に帰ってから、暫くして、Sも帰国した。Sと飲み屋で会った。
その時に聞いた話・・
アンナプルナのトレッキングルートの村で偶然会った共産党系労働運動の活動家Kと、ポカラで偶然会って飲みに行ったとのこと。
その時、Kは、巧が共産党系の労働組合を『裏切った』という話をSにしたそうである。
巧は驚いた。あんなに仲良く話が盛り上がったのに、日本から遠く離れたネパールに来てまで、それも、自然豊かなアンナプルナ山群に来てまで、そんな話を、なんの関係もないSにしたKの人間性を疑った。共産党というのは、こんなにも「人間性」よりも「自らの組織」を優先させるものだということを、改めて再確認させられた。共産党という組織は、人間をこんなにも腐らせるものかと吐き気がした。地裁・高裁・最高裁と連戦連勝した巧の個人提訴の裁判闘争の奇蹟的な大成果だったというのに。職場労働者の雇用を守ったのは巧だというのに。日本人の矜持を守り抜いたのは、巧だというのに。それよりも『組織』の方が大事なのだ。共産党という組織は。
巧は、Sに、共産党系の活動家が、乳癌になった執行委員のJさんに「這ってでも会社に来るように。」と言ってJさんの体調を悪化させ、結局亡くなったこと、それに抗議して共産党系の組合を脱退して、裁判を個人提訴したことを説明した。
Sは、「やっぱりな。おまえらしいよ。誇らしいよ、おまえが。」と分かってくれた。
この出来事は、巧が判断して行動したことがやっぱり正しかったということを巧に再確認・再確信させてくれた。
巧は、「組織」というもの自体のそら恐ろしさを感じた。巧の現実の成果よりも、「組織」の関係こそを重要視する共産党系労働運動の非人間性を思った。巧の行動が、巧もかつて所属していた共産党系の職場の組合の組合員たちも含めて職場労働者の権利をどれだけ守ったとしても、彼らにとっては、「組織」こそが重要だということに。その「組織」の「目的」以上に「組織」自体の存在こそを重要視するのが「組織」の存在理由なのかもしれない。「要求で団結」という共産党系労働運動のモットーは嘘だと思った。「組織でこそ団結」というモットーに変えるべきだ。それは、厳し過ぎる社会においては、人間性に対する挑戦である。
だから、巧の現場主義の現実の成果が一層引き立つ、共産党系労働運動活動家Kの行動だった。Kの意図とは逆に。