見出し画像

ゆらぎ 8 -あまりにもあいまいな(続編)  森田療法とドイツ語と「まささん」と高木仁三郎さんと中島正さんと農的生活

巧は、労働運動に巻き込まれてしまったが、同時に、多くの貴重な体験と出会いもあった。

職場で、同僚の誰も話してくれず、時には攻撃され、管理職の執拗な罵声の下で仕事をするという状態は数ヶ月も続いた。さすがに、巧も限界だった。
月曜病が深刻だった。日曜の午後になると深刻な鬱状態になった。
夕方、帰宅時、夜行列車が南に向かってゆっくり走っていくのを見た時、涙が出た。あれに乗って、何処か遠くに逃げられたら、どんなに幸せだろうと。
会社も、巧が精神に異常を来すか、体調を著しく崩して、自主退職するのを期待していた。それが巧には手に取るように分かった。

巧は、電気・電子技術関係の独和翻訳者だった。当時は、インターネットがなかったので、翻訳に必要な知識は、専門書を頼りにしていた。
巧が住む浦安の図書館は、TDLのお陰か、当時、日本一の本貸し出し量を誇る充実した図書館だった。専門書も充実していたし、なによりも、リクエストすると直ぐに購入してくれた。あるとき、ふと、精神医学・心理学の本が眼に入った。巧は、その関係の本を借りまくった。自分の精神状態を客観視し、自分で治療するためだった。
「森田療法」の本との出会いは救いだった。会社を離れられないので、その合宿療養所には行けない。自分で、森田療法を忠実に実践した。それに、巧は決して体育会系ではなく、ひ弱な体質だった。

それと、ドイツ語がウィークポイントだった。周囲は、高学歴のドイツ語・ドイツ文学専攻のドイツ語専門家ばかりだったからだ。ドイツ語は、高専の必須科目だったのと、ヴィトゲンシュタインをドイツ語で読んだくらいだった。しかし、徹底的にドイツ語で読んだので、独和翻訳者として入社試験のトライアルに合格し、採用される程度にはなっていたが。

森田療法による生活で、規則正しく、睡眠時間を充分にとりつつ、余計なことを考えずに、日常生活を大事にしつつ、ドイツ語を集中的に徹底的に独学した。専門的なドイツ語文法書と、ドイツ語系大学院の入学試験問題集を隅から隅まで何度も本がボロボロになる迄徹底的に学習した。独和翻訳の基礎力・実践力を付けるために、社外の翻訳の仕事もやった。収入が給与より高い月もあった。そんな生活が1~2年続いた。この時身につけた実践的なドイツ語力は、この後、30-40年に亘って巧の生活を支えることになった。

職場での方針は、こちらからは絶対に敵をつくらないようにした。例え、積極的に敵対する社員であっても、おだやかにかわした。かつて仲間だった組合員たちとは特に積極的に明るく接した。当初、無視していた組合員たちも、本部の意思通りにはいかず、次第に話すようになった。組合執行部のJさんが乳癌のホリスティック治療reikiでお世話になっていた「まささん」を紹介してくれて、その治療院に巧も通うようになった。結局、「まささん」とは、94歳で亡くなるまで30~35年以上の付き合いとなった。実は、彼女は、巧にとって大事なスピリチュアルの師だった。スピリチュアルの巨人「高橋信次」を巧に注入してくれた。

労働運動では、某政党派の運動から解放されたので、市民派の集会によく参加した。そこで、高木仁三郎さんをはじめて知った。TMI(アメリカのスリーマイル島原発事故)の後だったので、高木さんは、熱心にTMIの報告をなさって、日本の反原発を説いておられた。某政党派でない労組の集会には高木さんも呼ばれて講演をされていた。
最初の印象は、ひ弱なインテリ青年という感じだったが、次第に惹き込まれていった。気付いたら、高木さんの原子力資料情報室の会員になり、原子力資料情報室の会報で知った日韓の反原発闘争を結ぶ市民運動主宰の韓国語講座に参加していた。原子力資料情報室で火災があり、韓国担当者が亡くなった。その青年と入れ替わりのように、巧が参加するようになった。
当初20~30人もいた学習者も最後は、先生2名、生徒2名となり、結局、先生が所属するアジア文化会館の韓国語講座を受講することになり、中級から入学して、最高クラスの演習クラスまでいった。その後、韓国の環境運動連合との交流にも参加し、高木仁三郎さんから環境運動連合への資料を持参し、高木仁三郎さん宛の厖大な調査報告書をソウルから東京に運ぶまでになった。
原子力資料情報室の新たな韓国担当者Oさんと韓国語の天才である某大学講師N先生の3人で、韓国の原発関連の新聞記事を読み合わせ、研究するまでになった。もちろん、原子力資料情報室にも何度も通ったが、不思議なことに高木さんが直ぐ横にいらっしゃったこともあるのに、親しくお話したことはなかった。某空港建設反対運動の現場でもすれ違うことはあったのに。韓国の反原発活動家を通じて、高木さんのことは熟知していた。

高木仁三郎さんたちの影響もあり、環境問題から農業にも関心がいった。
某空港建設反対運動の援農にも参加し、農家と付き合ううちに、自分でも農業をやりたくなった。しかし、会社を退職して農業に転業するわけにはいかなかった。それができたら、どんなにいいだろうと心底思った。しかし、それはある意味、逃避願望だったのかもしれない。それ程、会社での闘争は、きつく巧を縛った。
浦安のマンションのベランダで、発泡スチロールの箱で野菜を作ることから始まって、郊外の農地を借りて農業の真似事をした。

そんな頃、岐阜の中島正さんの安藤昌益思想「みの虫革命」と自然農スタイルを知った。中島正さんとは、直接お話もし、一緒に原子力資料情報室の署名活動にも参加した。中島正さんとの出会いと交流は、巧の、その後の人生にとって根幹となるものになっていった。
結局、郊外に自分の山林をゲットし、その近くに2反の畑を借りて野良仕事をするようになった。
山林は、荒れ果てた杉・檜・雑木・竹林だった。開墾作業からのスタートだった。手斧、鉈、鋸、電気チェンソー、エンジンチェンソーも使って、開墾し、建築の本を勉強して小さな小屋を自分で建てた。
週末金曜夜から日曜夕方まで、ここで作業することもあった。会社でのストレス発散にもなった。なによりも、病弱だった巧の体が強くなっていった。当初、高速道路を使って、野良仕事をしに行って作った野菜を「スーパーで買った方が安いよ」と揶揄われていたが、巧の健康回復と農的生活への目覚めと、中島正・安藤昌益の農思想は、巧の基本思想を形成してくれたのだから、巧にとっては、それで充分だった。

こうして、会社での労組潰し攻撃との闘争によって、巧は、多様な社会問題、環境、原発、死刑廃止、農業、そして、スピリチュアルへと、世界が拡がっていった。会社が生活のすべてという当時のサラリーマンのスタイルを破り、会社で闘争しつつ、生活の経済基盤をおきつつ、社外の広い世界に軸足を置くという生活スタイルを築いていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?