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「フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔」高橋昌一郎著を読んで
先日、「『オッペンハイマー』クリストファー・ノーラン監督 を見て思うこと」を書いていて、ずっと以前に読み終わった本が気になっていました。
Kindle「フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔」高橋昌一郎著 講談社現代新書 2021/2/17 です。
「人類史上最恐の頭脳」「コンピュータ、原子爆弾、ゲーム理論、天気予報・・現代社会の基本構造をつくった天才の栄光と苦悩」と表紙にあります。
「人間のフリをした悪魔」とタイトルにあるように、著者の、ノイマンに対する立場は、ネガティブなのでしょうが、だとすると、以下の発言は、どう理解したらいいのでしょうか?!
「第二次世界大戦後、仮にアメリカやヨーロッパの自由主義諸国がノイマンの思い通りに動いていたら、もしかすると世界地図から独裁国家や共産主義国家は消え去り、今頃は民主的な「世界政府」が樹立されていたかもしれない。」「おわりに」p.227
要するに、『1950年代初頭のソ連を原始時代に戻しておくべきだったと何度も言った』ノイマンが生きていたら、朝鮮戦争で北朝鮮、ベトナム戦争で北ベトナムに原爆投下をアメリカ大統領に進言して、その通りに動いていたら』という仮定での発言です。
ノイマンは、1957年2月8日に亡くなっているので、少なくとも朝鮮戦争の時には、晩年のノイマンが世界におり、進言しようと思えば、進言できた筈です。ベトナム戦争は、1964年から、アメリカが本格的に軍事介入開始したのですから、進言したくてもできなかったのですが。
そういった、事実関係で無理がある点は別にしても、上述の「仮にアメリカやヨーロッパの自由主義諸国がノイマンの思い通りに動いていたら、もしかすると世界地図から独裁国家や共産主義国家は消え去り、今頃は民主的な「世界政府」が樹立されていたかもしれない。」(「おわりに」p.227)との発言は、ソ連の初の核実験は、1949年なので、「朝鮮戦争(1950.6.25~1953.7.27)で北朝鮮、ベトナム戦争(1954~1964~1975)で北ベトナムに原爆投下をアメリカ大統領に進言」する筈ないじゃないですか!?もし、進言して、「ノイマンの思い通りに動いていたら」・・今頃、人類は地球上にひとりもいなかったかもしれない!!!
(もし、著者の言う通りだとしたら、メタファーでなく、ホンモノの『悪魔』です!)
したがって、この一文:
「第二次世界大戦後、仮にアメリカやヨーロッパの自由主義諸国がノイマンの思い通りに動いていたら、もしかすると世界地図から独裁国家や共産主義国家は消え去り、今頃は民主的な「世界政府」が樹立されていたかもしれない。」「おわりに」p.227
は、まったくの誤謬です。
と同時に、それでは、著者にとって、原爆投下は、それ程ポジティブなのですか???・・と問いたいところです?!
閑話休題(それはさておいて)、私がここで取りあげたいのは、「オッペンハイマー」で書いたように、
「科学者と政治との関係は、現在~近未来のAI、量子コンピュータ、遺伝子操作技術などの最先端サイエンスと、政治、パワーポリティクスとの関係を吟味・再考する契機に」する必要がある
という事です。
「近現代科学、現代物理学の、「人類そのものに対する」功罪を人類史から、しっかり再考する必要がある」
という事です。
高橋昌一郎氏も書いておられます:
「「我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない」と言い放ったノイマンは、犠牲者に対する人道的感情とは無縁だった。あるいは、あえてそのような人間性に目を背けていたのかもしれない。彼が唯一、人間らしい姿を見せた記録として残っているのは、疲れ果てて自宅に戻った際、クララに「我々が今作っているのは怪物だ」と、動揺した姿を見せた一夜だけである。」p.228
オッペンハイマーにしろ、ノイマンにしろ、自らが開発した「原爆」が、現実に「広島」「長崎」において、人類に対する重大な犯罪行為を行ったというのに、その開発当事者が「我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない」ということは許されるのでしょうか??
「オッペンハイマー」で書いたように、「「歴史」は、その時系列端にある現在を考える「メタ」視点を得られます。」・・「最先端サイエンステクノロジーの暴走も、(原爆)同様に、いや、それ以上に、「我は死神なり、世界の破壊者なり」と近未来の科学者に言わしめるかもしれない程の脅威かと思います。」
閑話休題(それはさておいて)、実は、私は、10代後半の工業高専で「電子計算機」「パルス回路」専攻だったのですが、必然的に、「ジョン・フォン・ノイマン」と出遭ってしまったのです。
当時まだ「コンピュータ」ではなく、「電子計算機」だった時代に、次第に、「計算機の基礎」に目が行きました。
そうです!ノイマン式「計算機」原理から、「自己増殖オートマタ理論」に行きました。まだ、数学、と言うか、「ゲーム」の域を超えなかったのですが、アルゴリズムで「自己増殖」する「ゲーム」を実際にやってみて楽しんでました。
「自己増殖オートマタ理論」「量子力学の数学的基礎」「ゲーム理論」・・と、当時の工業高専の一介の学生には荷が重すぎましたが、分からないなりに、何かを、ノイマンの「それ」を感染されたのかもしれません。
(その延長で、実は、高専卒業後、大型コンピュータの実務に就いていたのですが、早々に転向し、テクノロジーの翻訳者になりました。ノイマンの「それ」の呪縛の下で仕事をしてましたが、次第に「それ」の非人間性に気付きました。40年も掛かりましたが。)
時代的に未だ未熟な「コンピュータサイエンス」でしたが、ノイマンは、単に「計算機」にしろ「コンピュータ」にしろ、計算の原理を考えていたのではなく、実は、人間の本質そのものを考えていたのかもしれないと当時思いました。
アリストテレス~中世~近現代の自然科学の「進化」から見たら、その本質を超優等生として体現したのがオッペンハイマーであり、ノイマンではないでしょうか。
ただ、その「人間の本質」は、ニーチェが明言したように、「神は死んだ」後の「サイエンス」が、その座に置き換わったかの如き、単なる「(数)量」としてしか、数学的・統計的動きとしてしか見ない「人間の本質」だったのでしょう。その明らか過ぎる「証拠」こそ、今、わたしが、あなたが目にして、触って、恩恵を嫌というほど受けているIT、AIでしょう。そのスタート地点にノイマンが、ノイマン式ストアードプログラム方式があって、未だに、その域を出ていないではないですか?!核分裂然り!
(つまり、現代を生きる私達は、「人間のフリをした悪魔」の掌の上で踊らされている○○なのではないでしょうか?!)
そうではない「人間の本質」こそ、私は探究したいです。
5.Feb.2025 あまりにもあいまいな-レジリエンシー
(写真は、黄憲萬撮影)