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ゆらぎ 13 -あまりにもあいまいな(続編) 山登りの「友情」(3)と「活動家」

最高裁判決の前、地域の争議団仲間の間で、地域合同労組結成が議論されていた。
巧の状況としては、最高裁判決後の労資関係としては、確かに不安定ではあった。仲間の説得もあって、地域合同労組結成に至った。それにより、巧は、地域の争議団仲間も当事者として労資関係に関わるようになり、社内で労働者として、労組法の観点からも保護されるようになった。最高裁判決は、その地域合同労組結成後に獲得した。これで、会社は、巧に完璧に手が出せないようになった。巧は、地域の労働者の権利保護も担う、文字通り「活動家」になっていった。

登山仲間のSは、職と家庭を失った後、穂高で遭難死した愛人の写真を持って、慰霊の登山を続けていた。それは、少し常規を逸していた。
ある日、穂高の涸沢から電話が来た。自分に何かあったら、この付近を探してくれという内容だった。Sの穂高三昧の登山に少し心配だった巧は、涸沢に駆け付けた。

それ以来、巧は、Sと一緒に登山をするようになった。もちろん、巧自身も穂高が好きだし、労働運動の超多忙な活動に対する言い訳にしていた部分もあるが、「活動家」として、他者の苦悩に寄り添いたいという気持ちもあったのは確かである。巧の幼児体験以来の巧の本質なのかもしれない。あるいは、巧が出会った多くの「活動家」の本当の姿は、心から他者の痛みに共感できる、心優しいひとたちであった。そんな「活動家」の側に自分がいることが、巧には、とても心地よいことだった。瀕死の重傷だった企業内組合に戻って、労働運動に巻き込まれていったのも、そんな心情からだった。

春の北穂は、未だアイスバーン状態だった。登山靴にアイゼンを付けての登山だった。巧は、足を滑らせた。ツルツルの北穂の斜面を滑り落ちた。瞬間、頭が真っ白になった。両足を開き(斜面に残っている雪を股の間に溜めてブレーキにする)、ピッケルをアイスバーンの斜面に突き刺して滑落を止めた。この基本中の基本動作がもう少し遅かったら、滑落の加速度に抗することができず、遭難するところだった。
穂高、八ヶ岳、甲斐駒、南アルプスの山々を冬山も含めて、Sと一緒に登りまくった。夏山と冬山では、全く違う山と言っていい程、違う表情を山は見せてくれる。断然、冬山の方が美しい。冬山の方が装備は多くなる。水は、雪を溶かして使うので、持って行く必要はないが、その代わり、テントやザックなどにへばり着いた、少なくない量の氷も一緒に持ち歩かざるをえないので、荷物の重量は半端でない大きさになる。
冬山のフィルムカメラの撮影は厳しい。シャッターが氷り、電池が氷ってしまう。だから、撮る時以外は、ダウンジャケットの中にしまいこんで、体温で温めている。撮る時だけ、外に出して、シャッターを切る。かじかんだ手で。
テントで夜寝る前に熱湯を水筒に入れておくと、翌朝にはカチカチに氷っている。氷点下20-30℃も、巧にとって当時は快感だった。

巧は、銀座の写真弘社の写真学校に通い、モノクロ写真を本格的にやり始めた。SH先生からは、アートとしての「写真」と、モノクロ暗室の技術を習った。当時赤坂見附にあったレンタルラボに通い詰めていた。レンタルラボのオーナー写真家からも暗室技術を現場で習った。一緒に暗室作業していた他の写真家たちの「写真」、「写真」に向かう姿勢・哲学、テクニックを学んだ。

韓国のシャーマン「ムーダン」をテーマに韓国の伝統舞踊、農村の伝統芸能などを撮っていた。巧は、自分でも韓国の小太鼓チャンゴを習っており、韓国釜山のホンジュソンのグループと韓国の漁村で合宿したこともあった。
ホンジュソンは、釜山に本拠地を構える韓国伝統芸能サムルノリのリーダーだった。彼ら楽団のメンバーたちと一緒に数日間合宿した。
ヨングァン(霊光)原発の近くの浜辺で一緒に泳ぎ、松林でランチした後、彼は突然仲間と一緒に伝統仮面劇の一場面を演じ始めた。コミカルな舞に、参加者みんな大笑いした。涙が出るほど感動し、それでいて、こころの奥底にジーンとした何かが残る・・そんな感じの舞だった。これを見たとき、このひとを撮りたい!と巧は無性に思った。
その夜遅くまで、マッコリを飲みながらホンジュソンと話した。釜山訛りの韓国語はむずかしかったが、彼の情熱を助けに話は大筋理解した。
サムルノリといえば、キムドクス(後に舞台を撮ることになる)が世界的に有名だけど、本来サムルノリは、農村の祭りや儀式で行う農民の舞楽である。キムドクスは、それを舞台に上げて「芸術」にしたけど、自分は農民や大衆のなかで本来の農民の舞楽をやり続けるということを熱く語った。それは、巧の「現場主義」と合致するものだった。
この話で、ホンジュソンを一眼レフで撮るという巧の決意はいっそう強固になった。彼にそのことを言うと快諾してくれた。
ソウルに戻って、成均館大学校内で大雨のなか、ホンジュソンを撮った。さすがプロ、ホンジュソンはしっかりポーズをとってくれた。
ところが、その合宿直後、釜山の路上で、泥酔したホンジュソンは自動車に轢かれて亡くなった。
彼の故郷海南島に弔いに行った。ホンジュソンは、静かな山寺に眠っていた。
ソウルに戻って、運命的出会いがあった。当時メジャーな写真家黄憲萬(ファンホンマン)と出会い、漢南(ハンナム)にあった彼のスタジオを訪れた。ファンホンマンは、実は、多くのファッション雑誌を飾るファッション写真の大家だった。それと同時に、韓国伝統文化を撮り続けていた。
この時出会って、一緒に農村に撮影に行った、ファンホンマンの弟子の若者インチョルは、後に韓国写真界の第一人者になった。この後、何度もスタジオに通い、一緒に撮影に行ったりした。農村だけでなく、コマーシャルフォトの撮影や、美術館での撮影にも同行した。
そんななかから、韓国伝統舞踊と韓国シャーマンの「ムーダン」の撮影へとつながっていく。

写真は、労働運動や反原発運動での必要性からも巧は熱中し、銀座の古いビルの一室に暗室を持つ迄になった。

そんな超多忙にかまけていて、少しの間、山から遠ざかっていたら、登山仲間Sは、穂高専門の登山ガイドになっていた。それが縁で、登山ガイド仲間の、2番目の愛人アキちゃんと出会い、一緒に登山をしていた。ネパールトレッキングもSは、アキちゃんと一緒にする仲になっていた。アキちゃんの部屋に同棲する迄になっていた。

銀座の写真弘社で、巧はSH先生のクラスの仲間でグループ展を開催した。その時、はじめて巧は、アキちゃんを紹介された。
山屋女子らしさが全くない可愛いギャルだった。Sには勿体ない程のかわいらしさだった。グループ展の仲間が、笑顔の仏像の写真を展示していた。アキちゃんがおどけて、その横に立って、同じような笑顔をして見せてくれた。写真の仏像そっくりな、アキちゃんの笑顔だった。あ!撮りたい!と巧は思った。

アキちゃんと一緒に登山したことはなかったが、3人でチベットに行く計画を立てていた。Sが詳細な計画を立てて準備していた。それをネタにして、3人でよく飲みに行った。その初めの頃、3人で新橋の酒場で飲んでいた。話をよく聞くと、アキちゃんは、巧の中学の後輩だった。住んでいたところも近い。しかも、同じ剣道部だった。同じ中学の出身で、同じ剣道部!しかも、アキちゃんは、ずっと剣道を続け、今では剣道四段になっていた。サークルでこども達に剣道を教えていた。話が盛り上がらない理由はない。中学の話、地域の話、剣道部の話で盛り上がった。
酒に酔ったSが嫉妬して、突然アキちゃんの頬を叩いた。アキちゃんも負けずに、「何故叩くの?」と言って、Sを平然とひっぱたいて抗議した。Sは直ぐに謝った。

アキちゃんは、実家が不動産屋で、名目上、アキちゃんが代表取締役だった。しかし、実際の仕事は、Sと同じ登山ガイドと、海外ツアーのガイドをやっていた。
そのずっと後、真夜中にSから巧に電話があった。「元気?」という、たわいもない内容だったが、よく聞くと、「アキが今日成田に着いている筈なんだけど、なんの連絡もなしに帰って来ない。アキのおかあさんに言ったら、『そりゃ、問題だ。問い詰めなきゃね。』とのこと。」要するに、アキちゃんと巧が一緒にいるのでは?と疑っての電話だった。3人の関係というのは、いつも複雑なものである。特に、男女の3人となると。
巧は、女性のともだちから「3人でチベットに行かない方がいい。行くと、殺されるわよ。」と、アドバイスされたことがあった。

都心の一等地にある写真ラボが倒産した。アキちゃんの口利きで、その写真ラボの暗室機器を巧は譲り受けた。譲り受ける日、Sと巧が都心のラボから機材を運んでいると、アキちゃんが成田空港から駆け付けてくれた。海外ツアーの帰りだった。機材は、巧の、銀座の暗室で使った。

巧の銀座の暗室ラボが水道事故を起こした。その時、不動産屋のアキちゃんが親身にアドバイスしてくれた。巧は、とても助かった。もし、アキちゃんのアドバイスがなかったら、大変なことになっていたところだった。さすが、現場の修羅場を掻い潜ってきただけのことはある。
倒産した中小企業の会社の社長さんが、「これは俺の命だ!」と言って、会社社屋の引き渡しを拒んでいる時、アキちゃんは、静かに説得したことがあるそうだ。そんな話を聞いたことがある。

3人でよく飲みに行った。最終電車がなくなった後、3人で深夜のビリヤードをしたこともある。Sとアキちゃんの部屋は、都心なので、その後、2人の部屋に泊めてもらった。

2人になった時、巧はアキちゃんに聞いた。「Sの何処が好きなの?」「ピュアなところかな。」巧は、内心、Sは、そんなにピュアじゃないのに・・と思った。「自分はそんなにピュアじゃないよ。ピュアな人間には労働運動はできないし。」と言いつつ、Sより自分の方がずっとピュアなのに・・と思った。

クリスマス前の冬の寒い夜、3人で、銀座で飲んだ。帰り際、Sは、巧を意識しつつ、「アキと俺の「愛の巣」に帰ろう。」と大声で言った。巧には、グサッとくるものがあった。巧は、ひとり、霙混じりの肌寒い都心の道を銀座のラボに帰るしかない。巧は、本気で嫉妬した。この時のことを、後で後悔することになる。

Sとアキちゃんは、フリーターなので、時間が自由になる。3ヶ月掛けて、南米アンデス山脈の標高6960mのアコンカグアの登頂に成功した。難易度の高い山である。
その時の話も、酒の場で、巧はよく聞かされた。巧は、羨ましかった。労働運動があるので、巧は行けなかった。

アキちゃんは、ツアー会社の初めての企画で、ツアーコンダクタがスイスにひと月間ずっと滞在して、日本からのツアー客を空港で出迎えて、スイスマッターホルンに案内するという仕事をした。会社としても、経費の点で利点があったのだろう。毎日のように、スイスの高い山の上と、麓の町を往復した。
ひと月間の仕事を終えて、日本に帰ってきた翌日、アキちゃんは、脳内出血で倒れた。
その日、巧は、昼休みに、自分でつくった弁当を食べ終わった後、何故か胸騒ぎがした。暗い気分になった。日記に「不安」という意味のドイツ語を書いた。その直後、仕事中にSから電話が来た。「アキが倒れて、入院した。」と。巧は、直ぐに会社を早退して、都心の大病院に駆け付けた。
アキちゃんは、静かに寝ていた。アキちゃんの両親が主治医と面会して帰って来た。お父さんが、ぐっと涙ぐんだ。「脳死状態」とのこと。「いつも、アキはこうなんだから。」とお父さんは、独り言のように呟いた。アキちゃんとお父さんの不仲は、よく聞かされていたが、お父さんはやはりアキちゃんのことが心配でたまらなかったのだと思う。アクティブすぎるアキちゃんの行動力に、ハラハラして見ているしかなかったお父さんの気持ちが少し分かる気がした。
その後、3ヶ月程その状態が続いた。その間、巧は、Sの案内で、アキちゃんの見舞いに行った。アキちゃんは、無菌室にいた。心臓が動いているだけで、意識はなかった。剣道四段で、アコンカグアを制覇した登山家とは思えない弱々しい姿だった。巧は、脳死状態のアキちゃんに一生懸命愈気をした。かなり長い時間愈気をしていた。Sの声で現実に戻された。
結局、その後暫くして、アキちゃんは亡くなった。まだ、30代前半の若さだった。
アキちゃんの元旦那が、アキちゃんの遺体と、お別れの対面をしている間、Sと、登山ガイド、ツアーコンダクタ関係の友人たちは別室に追いやられた。アキちゃんは、離婚していたことを、巧は、その時、初めて知った。
アキちゃんの部屋にSが同居していた形なので、親戚への体裁から、葬式前にSに退去が要求された。Sと、アキちゃんのツアーコンダクタ仲間の友人たちと一緒に部屋を片付け、整理した後、最後の夕方をみんなで過ごした。Sが酔っ払って、「こいつ(巧)は、アキのために付き合っている。」と言って、巧に管を巻いてきた。巧もはっきりと反論しなかった。

Sの荷物をSの実家に運ぶのを巧は手伝った。深夜~朝方まで掛かった。
深夜のファミレスで、巧は、ふと、Sに言った。「アキちゃんは、労災じゃないの?」と。労働運動活動家としては、当然会社に抗議したくなる状況だった。Sも、アキちゃんの両親も、内心そう思っていても、ことを荒げることはしたくないとのことだった。巧は、それ以上強く言えなかった。巧は、複雑な気持ちだった。労働運動活動家として、会社にムラムラと怒りがこみ上げてきた。そして、なにもできない自分に腹が立った。

その後、巧は、夢をみた。宇宙空間を丸い球体に乗ったアキちゃんがもの凄いスピードで飛んで行く。巧が「待って!」と言って追いつこうとするが、アキちゃんは、目もくれずに飛んで行ってしまった。
そのことをSに言ったことがある。Sは、よく巧の家に遊びに来ていた。丁度、巧の母が一緒にいた。巧がアキちゃんの夢の話をすると、Sは、「なんで、おまえがそんな夢見るんだ。」と少し抗議気味に言った。咄嗟に、巧の母親が「心配してんのよ!」と言って、その場は収まった。Sは、巧の母親を「おめぇのおかあさん、いいひとだな。」と言った。母親が入院した時、リハビリの靴をSが買ってくれた。そういう気遣いが、Sが他者から好かれる所以なのかもしれない。

それから、また、巧とSのふたりの登山が続いた。年末~年始の冬の甲斐駒~千丈ヶ岳は、きつかった。ザックの重さのみならず、年末~正月の3日を過ぎても、仙丈ヶ岳に登り返すという登山のハシゴは巧の体力の限界を超えていた。千丈ヶ岳は、氷りの滑り台状態で、ザイルで巧とSは確保しての登山だった。当然アイゼンを着けていても、滑る時は滑る。
巧とSは、ザイル一本で繋がった運命共同体で、黙々と歩きながら、共にアキちゃんのことを思っていた。アキちゃんとSも、こんなふうにしてアコンカグアを制覇したのだろうな、と。アキちゃんの人生を思った。


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