ゆらぎ 6 -あまりにもあいまいな(続編) 「針のむしろ」のはじまり
地域労働組合支部として生まれ変わった弱小組合に対して、労組対策の社外労務コンサルタントを擁したドイツ資本の対抗策は、非組合員のインフォーマル組織「職場を守る会」をでっち上げ、その代表の署名を以て就業規則を全面改悪してきた。
年休の算定基準の「労働日」に、労働義務のない「土曜日」を含めるという労働基準法の「年休8割条項」を違法解釈した条項になっていた。つまり、これにより、年休も生理休暇も著しく制限された。今迄よりも著しく少ない一定数以上休むと翌年の年休がゼロとなるからである。
それと同時に、労働組合に対しては、限りない文書合戦に持ち込むことだった。団体交渉も全面拒否はしないが、開催に当たって、労組そのものに対して質問責めにすることによって、事実上団体交渉を拒否してきた。会社は、賃上げ・一時金交渉も文書合戦に持ち込んだ。妥結月から賃上げし、一時金を支払うという一方的な条件を付けてきた。労政事務所や労基署も会社の対応を問題視したが、会社は、その指導を全く無視するという確信犯だった。プロの労務コンサルタントの指導だった。会社が違法なことをやっても、その間に組合が潰れさえすればよいという発想だった。
組合の団結力を見透かされていたような攻撃だった。組合は、有効に反撃できずに、1~数ヶ月遅れで「妥結」文書を提出した。地域の労組本部から会社に要請はするが、それ以上の有効な闘争は組めなかった。
そんな中、委員長の巧を狙い撃ちにした攻撃を仕掛けてきた。巧の妻の出産の際、育児時間を組合は要求したが、会社は、法で決められた「育児時間」は認めるが、定刻出社のタイムカード打刻を義務付けた。定刻の勤務時間前に、いったんタイムカードを打刻してから「育児時間」を取得しろというのである。それでいて、職場に育児施設を作るわけではない。事実上の「育児時間」拒否である。
地域の労組の仲間も協力してくれて、大きな「抗議ハガキ」運動を展開した。著名人も賛同してくれた。大きな集会も開いた。
本人の実力行使、つまり、常識通り就業開始時間を遅らせてタイムカードを押すことをしたら、「無断遅刻」をしたとして、即座に管理職から会議室に呼び出されて数十分~数時間に亘って本人を吊るし上げるという個人攻撃を掛けてきた。それに対して巧が抗議すると、管理職が大声で怒鳴り散らすという事態になった。それでも、他の組合員は、立ち上がらず、うつむいたまま仕事をしていた。育児時間をとった本人組合員の精神的ダメージが大きくなり、限界に達していた。
労組本部の指導により、「育児時間」攻撃に対して地裁に提訴した。その準備に厖大な時間が掛かり、法廷闘争も数ヶ月以上かかるという、のんびりした進行だった。
なによりも、職場の組合員の疲労は頂点に達していた。「育児時間」を公使した、ひとりの組合員のために、その法廷闘争のため等に、他の組合員たちが厖大なプライベートな時間を奪われていた。その上、昇給・一時金も組合が「妥結」する迄、数ヶ月遅れで、つまり、賃金が実質下がるという不利益を組合員故に被らざるをえなかった。
インフォーマル組織「職場を守る会」の非組合員からは、「同意書」なるものを会社はとっていた。つまり、自分がいくら昇給するのか、一時金がいくらなのか、分からないのに「同意」を強要するものであった。しかし、それに反対する者、抗議する者はひとりもいなかった。
「育児時間」の裁判は、裁判所の調停案を受け入れて、提訴取り下げで終了した。組合は、「勝利」宣言をしたが、巧は、何故これが「勝利」なのか理解できなかった。某政党派の労組組織の闘争方針を疑うようになった。巧の方針は、法廷闘争は法廷闘争としていいが、法廷闘争のみでなく、それを裏付ける有効な現場闘争も組むことだった。なによりも、搾取の現場である職場での実力闘争のみが事態を切り開く鍵であると巧は確信していたからだ。厖大な文書合戦の域を越えられない、越えようともしない組合では、なによりも労働組合の存在価値そのものがないことになると巧は思った。
これは、巧の原風景から来る勘だった。その勘は正しかった。
他方、巧が組合に戻るという決断をしたきっかけとなった執行部のJさんが乳癌になった。第四期で癌がみつかった。そのJさんに対して、某組合員が、年休を取り過ぎると、「年休8割条項」に抵触して翌年の年休がゼロになるからという理由で、Jさんに「這ってでも出社しなさい」とアドバイスした。これは、組合の会議で決定したことではなく、某政党に属していた某組合員が勝手にJさんに忠告したのである。
巧は、これに対して、組合の会議で抗議した。Jさんに「這ってでも出社しなさい」ということは、違法な「年休8割条項」を事実上認めたことになる。Jさんの体調・健康を第一に考えて、年休をとって休んでもらい、「年休8割条項」に引っかかったら、組合の団結でJさんを守り切ることこそが、労働組合の存在価値であることを主張した。
しかし、Jさんは、年休を取ることを自主規制し、無理して出社し、体調を崩した。Jさんは、入院・手術したが、程なくして亡くなった・・。
巧の心労も頂点に達したのか、Jさんに続いて、巧も甲状腺腫になった。入院・手術し、「年休8割条項」に抵触した。巧の場合は、幸い、良性の腫瘍で回復した。しかし、「年休8割条項」には引っかかった。組合員からは、「育児時間闘争で大変な思いをしたのに、またぁ~!やめてよぅ~!」という本音をぶつけられた。病気になることも許されなかった・・。
本部も腰が引けていた。
「育児時間闘争」の際、巧の知り合いの某哲学者の奥さんが○○民主新聞の元記者だったので、「育児時間闘争」を記事にしてくれたのだった。某政党派の労働組合の活動家たちは過敏に反応した。巧に対して警戒し始めたのだ。彼らにとって、某政党でない「左翼」はみんな「過激派」なのだ。
任期切れの大会前に、巧は、方針が違い過ぎるから委員長を辞めたいと労組本部に言った。労組本部から数名の「活動家」に呼び出されて論議したが、彼らは、巧を警戒しつつも、「組合民主主義」を盾にして、巧の委員長辞退を断固認めないという方針だった。承諾しない巧に対して、「活動家」たちは、最後には、巧を大声で恫喝した。
巧は、意気消沈しつつ、委員長を引き受けた。しかし、この一件は、巧の深層の何かを根本的に変えた。覚悟・・である。
職場の賃金交渉でも、組合内の議論で、組合員たちから、闘争なしの「即妥結」を提案され、反対する巧に対して、組合員たちは、「わたしたちは、闘争するためにここで議論しているのではなく、生活のために妥結するためにここにいる」と告げてきた。「組合民主主義」以前の問題だった。議論にならない、ただのおしゃべりに過ぎなかった。それでも、組合本部は、「組合民主主義」を盾に妥結を「委員長」巧に強要してきた。巧の意思に反した「妥結」を「委員長」巧の名前で行うことを強要してきた。組合員の意思を全く反映していない、むしろ、正反対の「委員長」だった。
本質は、労働組合対資本(組合潰しのための社外の労務コンサルタントの指導下にある会社)の闘争である。某政党の言葉で言えば、「階級闘争」そのものである。「組合民主主義」を大義名分にして、組合員の多数派の「要求」=「闘わない」を現場に強要してくる某政党の本質を巧は知った。本当の「組合民主主義」は、大衆の弱さに基づくのではなく、大衆の本当の要求に基づいて闘うことである。巧の職場では、組合員はすべて活動家であるという自覚が組合員には欠如していた。この自覚こそが、某政党の言葉で言う「前衛」なのである。なによりも、労働組合は、仲良しクラブではなく、「労働組合」という目的集団であるという基本的な認識が組合員には欠けていた。
巧は、某政党派の労組組織の支部である職場の労働組合を脱退して、「年休8割条項」裁判を個人提訴して闘うことにした。真の「組合民主主義」を実践すべく、真の「活動家」=「前衛」であるべく。
(タイトルフォト 大塚櫻)