見出し画像

あいまい・・わるいこと?

「曖昧さ耐性(Tolerance of Ambiguity)」という心理学用語については、まったく知りませんが、ことばのニュアンスから(「耐性」)ネガティブな感じを受けます。英語の”Tolerance”の方がネガティブ感は薄れるかと思いますが。昨今のサイエンステクノロジー全盛時代には、「曖昧さ」が徹底的に排除され、「論理的明晰性」が尊重され過ぎているように思います。

だとしても、例えば、最近流行のアニメ『チ。-地球の運動について-』の、「天動説」時代に「地動説」は「曖昧」どころか、「絶対誤謬」「死」を意味してました。
新しいパラダイムが定着する移行期間には、一定の「曖昧さ」が付き纏うのではないでしょうか。ひとりの人間のなかでも、何かが形になる過程では、常に曖昧さが付き纏うと思います。

自分自身を考えても、日常の行動ひとつひとつも、しっかりした確信をもって行っているわけではなく、曖昧さ、漠然とした、なんとなく、成り行きで行っていることって殆どと言っていい程です。

「ひとつひとつの現象も、心の作り出す限界の彼方にある。あるがままのものを定義できる概念などありはしない。にもかかわらず、顕現はあらわれ続ける。」(六行の金剛の詩・・ゾクチェンの教え)のですから、『すべてよし』とするしかない、と言うか、「一切はすでに成就しているのだから、努力の病を捨て去り、あるがままで完全な境地の中にとどまること、それが三昧だ。」(同上)なのではないでしょうか。

まだまだ未熟な私などは、そこまで「達観」できてませんので、曖昧なまま、それをよしとしつつ生きていると白状せざるを得ません。
と言うか、私を含め、殆どのひとが「達観」していない、普通の人間の日常生活を担っている言語の中では、「曖昧」であることは必須の、大きなメリットなのではないでしょうか。言語自体もそうですし、それで思考しつつ生きている人生の諸判断も、「曖昧」は必須の、大きなメリットなのではないでしょうか。

それどころか、少し「メタ」認識して観ると、「世界」自体も、あまりにもあいまいな出来事の総体でしかなく、然らば、「曖昧」をネガティブ視すべきではないのではないでしょうか。むしろ、「曖昧」がポジティブだからこそ、「世界」は、こうして成り立ち、私たちも「在る」のではないでしょうか。人間の認識は、「曖昧」であってこそ「人間」なのではと思います。
レジリエンシ(Resiliency)を、「しなやかさ・したたかさ」と読み、「あまりにもあいまいな」をポジティブに読み、あまりにもあいまいな世界・人生をしなやかに、したたかに生きようというメッセージになるのではないでしょうか。
あいまい・・\(^o^)/
1.Nov.24 あまりにもあいまいな-レジリエンシ

いいなと思ったら応援しよう!