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(小説) ゆらぎ(後編)2.山登りの「友情」(2)

                                山登りの「友情」(2)

三人の登山は、楽しかった。
丹沢山に登った。いつものように、途中でビールを飲んだ。丹沢山の最後の登りが結構きつい。Sが最初に山頂に着いた。直ぐ後に巧が続いた。Kは、かなり遅れてバテバテになって、やっと着いた。途端に倒れ込んだ。自分を待ってなかった2人に怒り気味だった。しかし、もしKを途中で待っていたら、たぶん、登れなかっただろう。Sも巧も、それ程ギリギリの体力・気力で登ったのだから。3人の間にほんの少し歪が入り込んだ瞬間だった。

Kと巧は工業高専電気工学科で「電子計算機(当時、まだ「コンピュータ」ではなく)」専攻だった。学年では、二人だけで、Kは、ソフトウェア、巧は、ハードウェア・パルス回路専攻だった。
体育の時間などは、二人でやる気なく野原に寝転んだりしていた。
教室でもKは、居眠りしていることが多く、他の学生が騒いでいると、ドアを足でドーンと蹴っ飛ばして無言で抗議する場面もあった。

卒業後、Kは、大型電子計算機室のシステムオペレータとして働いた。
巧も別の某大企業の大型電子計算機のシステムオペレータをしていたが、当時、日進月歩に進歩していた電子計算機の世界に次第に違和感が成長していった。大型電子計算機は、24時間稼働させているので、夜間の仕事も頻繁にあり、日々システムが進化するので、そのたびに新宿のIBM教育センターに研修に行かされた。せっかく覚えたことも直ぐに変更になった。
当時はまだ日本語システムがなかったので、英語でのインタフェースだった。プログラムがうまく動かない時は、数字記号だけの厖大なダンピングリストの紙束からバグ(プログラムの記述エラー/タイプエラー)を手作業で見つけるという大変な作業が待っていた。間違いなく、システムオペレータは、肉体労働だった。

休日のある日、近所の図書館に行って、誰もいない静寂な空間にエアコンの音だけがしていて、本の匂いを嗅いだ時、自分がいるべき場所はここだと思い、大学に進学することを決意した。コンピュータサイエンスのように日々変化する知識ではなく、古典ギリシア哲学の安定した世界に憧れた。
家族、とくに父親は「方向転換」に強く反対した。

結局、巧の決意は固く、夜間、某大企業の計算機室でシステムオペレータとして働きながら、昼間の大学に通った。
仕事は経済的には助かったが、体力的には厳しかった。試験に寝坊して受けられないこともあった。
高専での専攻からの連続性で、数理論理学、分析哲学専攻だったが、内心古典ギリシア哲学に憧れていて、実際、古典ギリシア語も含めて、しっかり勉強した。
結局、ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」専攻で、2-3年間に亘ってドイツ語でしっかり精読し、最期は、「論考」の研究者で第一人者だった末木剛博先生から数ヶ月間に亘って先生の書籍に基づいてマンツーマンでディスカッションしていただいた。末木剛博先生は、仏教の論理についても深い関心を持たれておられた。集合論の某書を当時読んでおられた。(ギリシア哲学の観点から、井上忠氏にとても関心を持ったが、他の哲学者から「彼はカトリックだ」と聞いて、井上忠氏の哲学的思想に疑問を持ってしまった。「なんだ!哲学的死闘しているのではなく、宗教という逃げ場があるんじゃん!」と。井上忠氏の著作からは「宗教」という「信仰者」の様相は全く感じられず、ひたすら、純粋な哲学的思索だけが感じられたから・・。しかし、若気の至りであった。今、いちばん後悔していることである。会っておけばよかったと。)
大学院進学も考えた。末木先生からも勧められた。しかし、進学するとしたら、「古典ギリシア哲学」を専攻したかった。他の某哲学者に相談した。「君の実家が裕福で、学生生活の心配をする必要がないのなら古典ギリシア専攻でいいけど、そうでないのならやめた方がいい。大学院を出ても就職はないと思った方がいい。」と厳しい現実を言われた。学部ですら夜間働きながら通った(そのこと自体、評価してくれる教授もいたが)のに、かなりの勉学量を要し、競争が熾烈な大学院ではとうてい無理だった。
当時、巧の父親は、会社の仕事で大きな負債を背負い込まされて、借金取りから逃げまくるという悲惨な状態でもあった。
それだけでなく、巧は、なによりも、登山ができなくなるのが耐えられなかった。大学院は、そんなに甘くはない。学者の世界の厳しさは熟知していたから。

結局、ドイツ人経営の翻訳会社に独和翻訳者として就職した。200人ほどの従業員で、業界では老舗だった。技術系の翻訳なので、高専卒、特に電子計算機・バルス回路専攻と、ドイツ語必須のヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」専攻は生きた。入社試験で、電子回路図を読めることが、ドイツ語の力不足を補ってくれた。つまり、試験問題のドイツ語の文の内容が、回路図から理解でき、的確に翻訳できた。
丸の内の職場なので、学生仲間からは、羨ましがられた。

高専時代の親友Kも、巧の生き方に影響されて、会社を退職して、大学入試に臨んだが、果たせず、結局、別の某大企業に入社して、日本語システム開発の大きなプロジェクトに参加していた。富士山の麓の何もない野原のラボに缶詰になって仕事していた。当時、高専卒で計算機専攻だと就職はよかった。

ある日、Kの母親から巧に電話がきた。Kが自殺未遂して、入院したという。手首を切った・・。地方新聞にも掲載されたようである。電話の途中からKの母親は泣き出した。泣き声で「息子を高専に行かせなかったらよかった」と。Kの自殺未遂の直接の原因は巧であった・・。
その電話の後、Kが巧に電話してきて、昼休みに日比谷公園で会った。まだKの精神は不安定で、突然、巧に激しく怒り出して殴り掛かろうとした。退院したわけではなく、外出が許されただけなのかもしれない。K本人から判明したのだが、Kは会社内で複数の女性を相手に問題を起こしており、精神的にかなり不安定だったようである。巧のように、大学に進学できなかった挫折感も追い打ちをかけたのだろう。明らかに、巧に対してライバル意識があったのだろう。巧は、入社直後職場結婚していた。それも影響したのかもしれない。

Kが退院して暫くした後、Sの提案で、久しぶりにSとKと巧の3人で丹沢に一泊で登った。事情を知ったKとSの中学時代の友人も、勤務していた麓の某大学病院から駆け付けた。Kは喜んだ。山小屋で、夜4人で過ごしたが、その友人は底抜けに明るくふるまっていた。早朝早々に山を下りて、職場に戻った。かなり、無理してKのために駆け付けてくれたのだった。

あるとき不思議なことが起きた。
川崎の、あるバーで、3人で飲んでいたとき、Kがトイレに席を立った直ぐ後、前でグラスを拭いていた若いバーテンダーがSと巧にくってかかってきた。「仲間外れにしたらかわいそうだろ!」と。Sと巧は、とくに思い当たることはなかった。ことばの端々、仕草のちょっとしたことから、そのバーテンダーは敏感に何かを悟ったつもりになったのかもしれない。初め、笑顔で対応していたSも、バーテンダーのしつこさに本気になって怒り出した。バーテンダーは、テーブルを越えてSに殴りかかってきた。バーテンダーの上司になるのか、明らかに年上の別のバーテンダーがすぐに飛んで来て、殴りかかったバーテンダーに向かって「バカヤロ!なにやってんだ!」と叱った。Sと巧にむかって、もうしわけなさそうに平謝りした。Kが戻ってきて、すぐに店を出た。

その後、めずらしく、SとKが2人で山に登った。巧も誘われたのだが、巧は職場結婚したてだったので、行かなかった。
下山して、巧の部屋で、Sの家族(奥さんと幼児)と巧の家族(妻)とKで飲んでいた。Kがしきりに山小屋で知り合った登山家を執拗に褒めちぎった。しだいに、Sが不機嫌になり、KがSの幼児を少しばかにしたようなことを言ったのをきっかけに、SとKの取っ組み合いのケンカになった。巧がひっしにSを止めた。それで納まって、Sの家族3人は帰った。Sの奥さんは、泣きながら、「Kと一緒に山に登ると殺されるよ」とSに言っていた。Kも、ほどなくして帰った。翌日、Sがひとりで巧の家に来て、前日のことを謝った。

自殺未遂後、Kは、父親が務める会社に転職し、結婚した。結婚式には、Sも巧も出席した。スピーチの際、Kの父親の手が震えているのを巧は敏感に気付いた。Kの父親は、Sも巧もまったく無視した。Kの母親は、電話の件を巧に笑いながら謝罪しただけで、それ以上の話はしなかった。周囲の来客に明るく振る舞っていた。Kの結婚相手(病院の看護師)も、Sと巧にはなんのことばもなかった。

それ以来、3人での登山も交流もなくなった。Kは、誘っても来なくなった。Kの家族が望んだのだろう。Kの奥さんは、明らかに事情を熟知していた。その上での判断なのだろう。

巧が所属していたS山路会とは次第に疎遠になり、S山路会が海外遠征のロッククライミングで遭難したことを山岳雑誌で巧は知った。もし、ずっとS山路会で登山していたら、巧も遭難していたかもしれない。

この後、Sと巧のふたりの登山がずっと続くことになる。

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