(小説) ゆらぎ(前編) 14. 島原城と雲仙
14. 島原城と雲仙
島原城
島原に、三人で家族旅行に行ったのをよく覚えている。
九十九(つくも)ホテルに泊まった。
ホテル裏の松林と白波の様子と波の音が今でも脳裏に焼き付いている。三人で、砂浜を歩いた。波打ち際の海水に手を浸けた。その感触を、未だ手が記憶している。
父と母との三人の旅行・・・初めてかもしれない。家族の幸せの風景は・・。
島原城跡に行った。何故か、家族旅行の「観光地」として・・。
何処をどう歩いたのかまったく記憶してないのだが、わさわさした、妙な胸騒ぎを感じたのを覚えている。心臓がバクバクした・・。
その時には、「島原の乱」の片鱗すら知る由もなく、その理由はまったく分からなかったが、後になって「島原の乱」を知るにつけて、ずーっとずーっと後に、その理由が分かった。
天気がよかった。海も静かだった。過ごしやすい時期だったのだろう。
輝く海の水平線の向こう、遠くに島陰が見えた。
とても静かすぎて、穏やかすぎて・・そんな理由で理由(わけ)もなく、泣いた。
父と母が
「どげんしたっ?」
と、戸惑っていた。
「おかしかねえ、こん子は。」
ぽかんとした晴天で、平和すぎて、風もなく静かすぎて、変化がなさすぎて、海の輝きが美しすぎて・・泣きたくなる・・そんな気分は、多分この時が初めてだったのだろう。
その後、ずっと、こんな晴天の昼間に無性に胸騒ぎがして居心地が悪い気分になることがいまだに続いている。
実は、晴天の昼間は弱いのである。いまだに。
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* 島原の乱・・37,000人もの浪人武士・「邪教を盲信する」百姓・老若の女・こどもも含む一揆勢が島原の原の古城に立てこもり、幕府軍120,000人が当時の近代兵器の総力を掛けて全滅させた。
江戸幕府は、女子供といえども一人残らず撫で切りにせよと命じた。
殺した後も、徹底的に粉々に粉砕した。いまだに原城に遺骨がたくさん埋まっている。天草の人口は半減した。
そこまでするほど、江戸幕藩体制にとっては巨大な『脅威』だったのである。
何故ならば、37,000人のバックには、植民地主義に邁進する巨大な「西洋文明」が佇立していたのだから。
歴史の歯車がひとつ違っていたら、「江戸の平和」はなかったかもしれない。江戸幕藩体制の「平和」は、彼ら彼女ら、こどもたちの犠牲の上に築かれたのである。
「江戸」時代は嫌いだ。
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雲仙
母方の祖母と母と一緒に三人で、雲仙に一泊旅行に行った。
断片的にしか記憶にないが、あいにく天気が良くなくて、濃霧の中、山の坂道をバスに揺られたのを何故か鮮明に覚えている。それと、ボンタンアメの味が浮かんでくる。買ってもらったのだろう。
それと、旅館の温泉の風呂場で、滑って転んだのをしっかり覚えている。その光景に至るまでしっかり記憶している。
不思議なのは、転んだからではなくて、泣かなくてはいけないと思って泣いたことである。その感覚がいまだにしっかり残っている。
雨の中、雲仙の「地獄巡り」を三人でした時も、島原の時と同じような、わさわさした、妙な胸騒ぎを感じた。と言うか、居ても立ってもいられないというような、居心地の悪さを感じたのをしっかり覚えている。
もちろん、その時は、それが何故なのか、まったく分かる術もなかったが。
当然、雲仙での切支丹弾圧を知る術もなかった・・。
文字通り「地獄」が此の世に実現した時代があった・・。