19. な お み・・・#実験小説 #あまりにもあいまいな 

      「今は心の奥に凝り固まりて、
      一点の翳とのみなりたれど、
      文読むごとに、物見るごとに、
      鏡に映る影、声に応ずる響の如く、
      限なき懐旧の情を喚び起して、
      幾度となく我心を苦む。」 
                   『舞姫』森鴎外

 白川社宅一階の藤田さんのお宅には、こどもが二人居た。お兄ちゃんと妹の二人で、歳の差は二歳程度だった。お兄ちゃんの方は、少し知的障害があり、巧が遊ぶのはいつも妹のなおみちゃんの方だった。巧とは一歳違いだった。同じ家に同居している状態なので、遊ぶ時は、なおみちゃん家族の部屋に行ったり、巧の家族の部屋に来たり、共有の庭だったりした。毎日毎日何時も一緒に遊んだ。

 巧の父方の親戚が近くで床屋さんを営んでいた。当時の鉄道は、さほど頻繁に汽車が走らないので、線路は付近の人達の通路代わりだった。今では考えられないことだが。

 なおみちゃんと巧は、手をつないで、親戚の床屋に遊びに行った事がある。二人で線路を歩いて、手をつないで行った。
床屋の夫婦は、ニヤニヤしながら、
「巧ちゃん、もう彼女連れて来たんね! 早かねぇ~! うらやましかぁ~!」と揶揄いながらジュースとお菓子を二人に出してくれた。
帰りも線路を歩いて帰った。手をつないで。

 探偵ごっこのような遊びで、少し遠くまで行ったことがある。「おかあさんが「遠くに行ったらでけん」て言ったもん!」と、嫌がるなおみちゃんを口説いて。

 なおみちゃんのお父さんは、カメラが趣味だった。自分で、暗室で焼いていた。暗室は、見たことがないが、フィルムのパトローネが山のようにあり、こどもの玩具になっていた。たくさんのパトローネを積み木のようにして遊んだ。
思えば、それが最初の「写真」との出会いである。古きよき時代、フラッシュのランプも一回一回取り替えていたようで、たくさんのランプを見たことがある。

 巧は、幼稚園に通っていた。一つ年下のなおみちゃんは、巧が幼稚園から帰ってくるのをひとりで待っていて、それから一緒に遊んだ。


 その日も一緒だった。
多分、幼稚園が休みの日で、朝から一緒に遊んでいた。

 大人が走って行く。巧の母親も、なおみちゃんの母親も走って行く。
巧となおみちゃんも一緒に走って行った。いつも、手をつないで歩いている線路の方へ。

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見てはいけないものを見てしまった・・・二人は。

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こどもながらに、女の子は強いと、巧は感じた。
「『ひとは死ぬと「物」になる』って、おかあさんが言ってた。」となおみは平然としていた。少なくとも、巧にはそう思われた。

 それに反して、巧は、それ以来なにかが大きく変わった。致命的に激変した。
 その日の夕方、巧は、いつものように、父母に連れられて大牟田の映画館に行った。
 巧は、怖かった。映画館が暗くなるのが。暗い通路、足元に踏んではいけないものがあるような気がして。あれ・・・あれがあるような気がして。震えていた。

映画のスクリーンなんて、どうでもよかった。自分が、何処か遠くに居るような気がした。自分が、自分から遠く離れて行く気がした。あの「物」の方へ。

 巧は、その日以来元気が無くなっていった。
 目の前のこと、世界が何処か、よそよそしくなっていった。
 自分も、自分自身も、同じように、「物」になり得る。そのことが衝撃だった。同じ「物」であることに。それは、どうしようもない、「事実」であった。
しかし、それと向き合うには、あまりにも、幼なすぎた。

 幼稚園でも、目に見えて元気がなくなっていった。幼稚園の先生が心配して母親に尋ねた程だった。
母親が先生に説明した後、先生の顔が暗くというか、顔をくちゃくちゃにして、それから、きびしい表情に変わったのを巧はしっかり確認した。

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今でこそ「PTSD」などという言葉があるが、当時は当然そんな言葉もなく、周囲の大人も、巧の元気の無さが精神医療的治療対象だということに思い至る環境は皆無だった。時代的にも。
今ならば、当然「PTSD」と診断されて治療対象になり得る状況だったのだろう。
いちばん戸惑っていたのは、母と父かもしれない。
当時、小学校入学の記念写真があるのだが、一見して分かるほど、今にも泣きそうな暗い顔である。とても、小学校入学写真とは思えない。
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森鴎外は石見国津和野(現:島根県津和野町)出身である。鴎外は、生涯決して帰郷しなかったそうである(墓は津和野だが)。その理由について研究者の見解として、鴎外は、幼児の頃、切支丹迫害の現場に遭遇して、処刑現場を見たのではないかという解釈があるとのこと。あの饒舌な鴎外と雖も、一言もそれについては言及していないので、真相は分からないが。
 ひょっとすると、鴎外と巧は、同じ種類の幼児体験をしたのかもしれない。鴎外も、巧同様に、人生の根源を揺るがす程の衝撃を受けたのかもしれない。「物」から。
河原温の絵のような・・。
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あの「物」に、どんな人生があったのか、知るすべもない。
分かるのは、戦後最大の労働争議、革命前夜と呼ばれた「三井三池争議」の真っ最中のできごとであるということである。
歴史の舞台、政治の表舞台だった大争議の裏では、人間の生々しいドラマがあった。

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その日以来、巧となおみは、何かが変わった。

 巧となおみは、いつものように、パトローネの「積み木」で一緒に遊んでいた。
 ふと巧が気付くと、なおみは直ぐ横で畳の上に俯せになって、じっと巧を見続けていた。なおみの手は、なおみの下腹部にあった。巧は、不思議な気持ちになったが、なおみが何をしているのか、わかるはずもなかった。
 しかし、この時のことは、巧の脳裏から離れなかった。彼女の虚ろな眼差しも、真剣な顔つきも。

 巧となおみが、いつも一緒に仲良く遊んでいるのに嫉妬したのか、近所の、少し歳が上の女の子たちから巧が虐められた。
巧は、数人がかりで、意味もなく酷く罵倒され、こづかれた。巧は涙ぐんだ。女の子たちのうちで一番体の大きなボスが、なおみを誘って一緒に余所で遊ぼうとした。
なおみは、少し戸惑った後、その「ボス」の手を黙ったまま振り切った。女の子たちは、なおみの悪口も言いながら余所に行った。

部屋の中には、巧となおみの二人が残された。なんとも言えない、ある種の「気まずさ」が流れた。二人は、黙ってパトローネの「積み木」を取り出した。
 いつもと違って、まったく「積み木」遊びに集中できなかった。それでも遊んでいるふりをし続けた。
 巧は、だまって「積み木」ごっこしているなおみの目に涙が溜まっているのに気付いた。巧も、理由も分からず、いっしょに涙が出てきた。
 二人は、じっとだまったまま抱き合った。暗い部屋の中で、いつまでも抱き合った。
 もう少し歳がいっていたら、違う展開になっていたのかもしれないが、そうなるには、ふたりとも余りにも幼なすぎた。幼稚園児と、ひとつ歳下の幼児では。
 女の子は強いと思った巧だったが、なおみも自分と同じように、あるいは、それ以上に傷ついていたんだと分かった。
 巧も、下腹部に、なんとも言えないツーンとした感じに、生まれて初めてなった。早すぎ?分からない。

 それから二人の世界は続いた。いつも一緒に遊んだ。
 ある日、庭の日なたで、「お父さんお母さん」ごっこした。
 「お父さん」巧と「お母さん」なおみの「おままごと」が、いつの間にか「お医者さんごっこ」になっていた。なおみは自分のパンツを下げた。
巧はじっと見つめた。まじまじと見るのは生まれて初めてである。
幼い頃炭住の銭湯の女湯に母親に連れられて入って少女の裸体は目に焼き付いていたが。
女性の局所をマジマジと見るのは初めてであった。
巧は、・・美しいと思った。

 その時、なおみの母親が声を掛けて来た。
静かな声で「なんばしょっとね?」と。
怒ってはいなかった。むしろ。戸惑いながらも少し微笑んでいた。

 その「事件」は、大人の間では少し話が出たようだが(多分、なおみの母親と巧の母親との間では)、幼い二人は何も言われなかった。多分、あの「事件」の後だったから、むしろ、それを心配していた。

 ある日、多分「紙芝居」の自転車のおじさんを追い掛けて、少し遠くに来てしまった。夕陽が有明海の方に沈みかけていた。
ドンドン暗くなっていく。
なおみと巧は、手をつないで、急ぎ足で帰っていた。なおみが少し涙ぐんで、「お母さんに叱られる」と言った。
それでも、「夕陽がきれい!」と、ふたりで、ほんの少し眺めた。というか、夕陽のなか、ふたりであるいた。
 巧は、焦った。
二人で急いで歩いた。じっと黙ったまま。手をつないで。
 その時、ふっと、あの下腹部がツーンとなる感じが巧を襲った。何故なのか理由は分からなかった。

 その時、何故か、あの映画館の中で起こったことがまた起きた。自分が、何処か遠くに居るような気がして、自分が、自分から遠く離れて行く気がした。

 「何故、自分は今此処に居るのだろう?」
 「何故、自分は「あの「家族」のところに帰らないといけないのだろう?」
 「あの「家族」ではない、この目の前の家に「ただいまあ」と言って帰ってはいけないのだろう?」
 「目の前の「世界」は何故こんな「世界」なのだろう?」
 「あの夕陽は?」
 「自分は、何故自分で、なおみは何故なおみなのだろう?」
 世界が、自分から遠く離れて行く気がした・・。

 歩いている自分が分からなくなり、「歩いている」こと自体が分からなくなり、巧は立ち止まってしまった。足を一歩も踏み出すことができなくなってしまった。
なおみは、巧が疲れたのかと思って「もう少しだから急ごう」と巧の手をとって巧を急いた。なおみの声に、はっと我に返って歩きだした。

 この出来事も、巧の人生を大きく変えていった。

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断片と化した人間たちがごろごろしていた・・
部品と化した手・足・胴体・頭・肉片・・
しかし、人間・だった・・わたしと同じ・・
それを踏みつけないかと・・
震えていた・・
真っ暗な映画館の中・スクリーンに映るのが・世界・なのか・・
死体が・世界・なのか・・
しらじらしい気がした・世界が・・
スクリーンに映る・・
「世界」・「「世界」」・「「「世界」」」・・・
遠くなっていく・・
死体にワープした・断片と化した・物に・・
物の側に・・
ただ震えていた・・
血の海の中で・・
震えながら漂っていた・・
救いを求めることすら・・祈ることすら知らないこどもは・・

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