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デジタルカメラは本当に「写真」を撮れるのか?続き

1.“「写真」を撮る・・ということ”
2.『デジタルカメラは本当に「写真」を撮れるのか?』の質問の整理
3.デジタルフォトとアナログ写真は別のもの
4.先端技術の流れの側に位置している「デジタル」
5.デジタルカメラには「写真」は撮れない

1.2023年8月16日付けnoteの以下の記事“「写真」を撮る・・ということ”を前提とします。


ひとはなぜ「写真」を撮るのでしょうか?!
ひとは、皮膚で被覆された閉鎖系生物システムで、各感覚器官で、外界世界と相互交流しつつ生をまっとうするものでしょう。この点で、非閉鎖系となり、ひとは、社会的生物となるのでしょう。
光(波動の一部分)の物理現象を媒介にして、眼からの視覚入力が脳でホリスティックに処理されて、外界世界をイメージとして認識するものでしょうか。
ひとまずは、そうやって、ひとは世界を認識しつつ、他者とかかわりつつ生きるのでしょう。

ずっと以前、新聞の切り抜きを大事にとっておいていました。
とある原始宗教が解釈する「世界」の図・・半分に縦に切った玉葱のような多層構造が描かれていました。
インターネットが出現したとき、仕事でインターネットの仕組みを学んだとき、この図を想起しました。最先端テクノロジーの思想が、原始宗教の思想と通じるのは偶然とは思えません。シュタイナーの「アストラル体」「エーテル体」などを想起してもいいかもしれません。

カメラは、その誕生からずっと、この「世界」のイメージを切り取って動的イメージを静止イメージに一定固定する装置なのでしょう。

シャッターを切るという行為は、撮影者であるひとのこころが、脳から指の末梢神経に指令を出して実行するのでしょう。

ひとのこころは、奥深いもので、たぶん、意識的、無意識的に、この多層構造が作用しつつ、「写真」が成立するのでしょう。
したがって、撮られた「写真」は、撮影者の、この多層構造を担いつつ、撮影者から独立した、別のものとして「世界」の中に存在し、ひとり歩きすることになるのでしょう。

要するに、「写真」を撮るという行為は、閉鎖系生物システムであるひとが、その外界である「世界」「他者」と交流して非閉鎖系となることなのでしょう。
「ひと」と同様に、「写真」も、当初は、撮影者の多層構造を担いつつも、撮影者から独立した途端、独自の多層構造を担うものなのではないでしょうか。

だから、「写真」の価値とは、「美しい」「雄大」「カッコイイ」「コミカル」「ほのぼの」「インスタ映え」「教訓的」「アーチスチック」・・といった言葉で言い表されるのかもしれません。
しかし、なにか、そこに、客観的というか絶対的というか価値基準を欲しくなってしまいます。「美のイデア」って、あるのでしょうか。

わたしにとって「写真」の価値とは、「多層構造」にフォーカスしたスケールから「世界」とか「存在」とかの『根拠』にリンクした価値なのかもしれません。
わかりにくいですよね(T-T) 
自分でもよくわかってないからですm(__)m


2.『デジタルカメラは本当に「写真」を撮れるのか?』の質問の整理

この『「写真」を撮る』という行為からすると、アナログであろうが、デジタルであろうが、大して変わらないのかもしれません。
西洋中世・近代合理主義~近代科学の成果であるアナログ・フィルム・カメラと、先端科学の成果であるデジタル・光電変換素子CCD・カメラの差が、『デジタルカメラは本当に「写真」を撮れるのか?』の質問にとって、どの程度問題になるのかに依存しているのかもしれません。

両者の差を強いて言うとすると、前者は数百年の時間経過を経て、ゆっくり進化・変化しているのに対して、後者は、高々数十年単位でしかなく、未だに日進月歩に指数関数状に加速しつつ、デジタルテクノロジーが変化・「発展」しつつある点でしょう。

両テクノロジーの時間速度の違いは、小さくないのではないでしょうか。その証拠に、アナログ・フィルム・カメラ~暗室作業の途轍もない長い処理時間と、デジタル・光電変換素子CCD・カメラ~コンピュータ画像処理・プリントアウトの超短時間処理との差が生じ、後者に慣れた現代人は、前者の時間感覚を殆どの場合、許容し得ないことを挙げることができるでしょう。当然、経済性を度外視した「芸術」としては許容可能でしょうが、現実日常生活の経済活動レベルでは許容不可能なのではないでしょうか。
それどころか、解像度・S/N比・表現力・画像加工等の画像処理能力は、デジタルの方が、アナログに比して格段に大きいのかもしれません。
それでも、デジタルよりもアナログに軍配を上げる人が、私自身も含め、少なからずいる点に着目したいです。既述の真空管アンプと、LSIアンプの違いも参考にしてください。

3.デジタルフォトとアナログ写真は別のもの

上述の比較は、あくまでも「デジタル」に軸足を置いたものです。
実際に、バライタ印画紙に表現された被写体そのもののと、デジタルに表現された被写体そのものとを比較すると、全く違う原理に基づくものであることが分かります。従って、それに依存する画像処理の原理も全く違うものであります。
だから、両者の表現は、全く別ものです。そのことを理解すれば、アナログ・フィルム・カメラ・暗室の利点は、デジタルに比して全く遜色ないものであることは明らかです。それにもかかわらず、フィルムや印画紙が製造中止になるのは、ひたすら経済原理だけの理由なのでしょう。次に問題になるのは、人類一般は、何故デジタルを選択し続けているのか?です。

4.先端技術の流れの側に位置している「デジタル」

コンピュータ→インターネット→スマートフォン→AI→VR/AR/非デジタル量子情報機器/ブロックチェーン/遺伝子技術等へと「進化」し続ける先端情報技術は、世界経済や国家の基本原理すら凌駕せんとする勢いにあり、「デジタル」技術は、この勢いの中に完全に組み込まれています。人類一般としては、この勢いを止めるには時既に遅しですし、そのサイエンステクノロジーの暴走は誰にも止められないのでしょう。

人類は、暗黙のうちに、深層心理で、無意識レベルで、実は、このサイエンステクノロジーの暴走に大きな「不安」と「恐怖」を抱いているのではないでしょうか。

5.デジタルカメラには「写真」は撮れない

ここで問題にしていることも、実は、この「現代」という「特異点」の分析から紐解いていかないといけないのでしょう。自然から遊離し切って、ひた走り続ける人類とサイエンステクノロジーの実像を知ることに、ここでの質問の正解もあるのかもしれません。

上述の論拠から、アナログ・フィルム・カメラ・暗室の実体験とフィーリング、温もりを未だ指先・掌、視覚・嗅覚、心身の深層に宿している者として、あくまでもアナログの側から断言しよう。

デジタルカメラには「写真」は撮れない

と。。

27.Sep.24

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