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「攻撃するために質問する人」が職場にいると何が起きるか!


実力がある人でした。
広い知識を持っててその知識を応用するやり方も知ってて、課題を見つければその課題を解決する方法、しかも実現可能なやり方で考えられる人でした。

ただ私が見る限りその人にはたった一つだけ大きな欠点がありました。

それは
「攻撃の手段としてしか質問をしない人」だったのです。

前提として
本来であれば「質問」というのは
何か自分が知らないことを教えてもらう、あるいは自分が知っていることと
相手が知っていることを磨り合わせし
新しい知見を導くために使うものです。

良い質問があると話が進みますし、
皆の知見が深まります。
だから質問は大事ですし気軽に質問が
出来る環境作りが非常に重要です。

質問が出ないのは話し手の責任が8割。
だから「質問が出る」ようルールを決めたらいい。

基本話す側には
「聞き手が何を知らないか」
が分かりません。

ゼミだろうが発表会だろうが関係なく
話し手と聞き手の間には、間違いなく
「知識の溝」
が出来るもので話す内容だけでそれを
埋めることは非常に困難です。

話し手も人間なので、必要なことを全て
話せてるとは限りませんし、大抵の場合何かしら重要なことを見落としているものです。

それを埋める為には、
聞き手に
「何を知らないか」
「何が分からなかったか」
を表明してもらう必要があります。

そこを契機に情報が深まっていくものですし、場合によっては話し手も知らなかった新しい知見がうまれるかも知れません。

これに対し
「攻撃の手段としてしか質問を使わない人」は何をするか。

要は自分は既に「こうだろ」という
決して譲らない回答をもっていることに相手をマウントする
ないしは難詰する手段として「質問」という形式を使おうとするのです。

攻撃の手段としてしか質問をしない人が会議の席上にいるとこういう会話が頻繁に発生します。

「この資料に〇〇という記載がありますが、これはどういう意味?」

「その〇〇というのはこれこれこういう意味で…」

「いや、それは違いますよね?
〇〇なのだから××でないとおかしいですよね?何故そうなるんですか?」

「いえ、それはこれこれこういう意図で」

「それはおかしい。ここは××でないと意味が繋がらないから直してください」
こんな感じです。

もちろんここには幾つか検討しなくてはいけない要素があるんですが一番大きな問題は

「自分は最初から「××」という確固たる回答をもっており、そこから譲るつもりはない」

なのに最初から
「それは××ではないですか?」
と指摘する訳ではなくわざわざ
「問答」というプロセスを経ていることだと思うんです。

確固たる回答があって歩み寄るつもりがないのであれば、わざわざ質問をする意味がありません。
時間の無駄でもあり相手からすると
「わざわざ質問に答えているのに重ねて否定される」
という徒労感の原因にもなります。

「質問
→相手の回答に対する否定
→自説の押し付け」

というプロセスがワンセットになっているので、この人が質問をすると、相手は必ず
「あ、これから否定されるんだな」
と身構えてしまう、という状態でした。

質問というのは本来
「すり合わせ」のトリガーです。

ですから聞かれた側は、そこから相手の理解に対し一定の助力を提供出来ることや、あるいはなにがしかのすり合わせが行われることを期待します。

議論が出来る
ということが報酬効果になるんです。
それなのに
「質問されたから答えたのに、毎回ワンセットで否定される」
となったら質問されること自体が
嫌になりますよね。

私自身何度かその人と話したんですが、本人的には
「一度相手の言い分を聞いてやる」
というスタンスでいわば譲歩の結果らしい…。
最初から間違いを指摘すると可哀そうだから一度は喋らせてやる!という思考
らしいです…。

いや、それは違うんじゃないかと
すり合わせする意志がないなら
最初から「こうだろ」と指摘した方が、まだ相手のプライドは傷つかないんじゃないですかね?
って言ったんですが
残念ながら私の指摘も彼にとっては
「余計なもの」でしかなかったらしく
相手にされませんでした。

彼がチーム内でこういう
「攻撃の手段としての質問」
をし続けていると何が起こるかというと

「質問をされるような余地をそもそも残さないようにしようとする」

少しでも不明確な部分可資料から除去し本当に確定した情報しか残さない。
確定する部分が僅かしかない場合、
資料を小さく小さくまとめようとする。

勿論「不明確な部分をなるべく残さない」という考え方自体は悪いことでは
ないですが、物事はいつも確定する話
ばかりではないので、それって即
「話の広がりが消える」ということに
つながるんですね。
発散させるべき場面でも話が発散できなくなる。
だから発想の幅が広がらず小さく小さく閉じていく。

次に
「質問されただけで攻撃をされているような気になる人が増える」
という現象が発生しました。
普段から攻撃につながる質問しかされていないので、普通の質問をされただけでも身構えてしまうんです。
お蔭でそのチームの人たち全体と
コミュニケーション不全が発生する
状況になりました。

で次第にチームは上手く動けなくなっていき
彼は本来の実力からすれば遥かに過小な成果しか出せず、チーム内でも孤立して
いき
最終的にいづらくなって辞めてしまうというパターンでした。
どうも前社でも同じようなことをされていたようでした。

いや…会社も下手だったと思うんですよ。

私は残念ながら人事を左右出来る立場にはありませんでしたが、彼の能力なら、もうちょっといい働き方やポジションもあったと思いますし、それを提供出来ずに辞めさせてしまったのは会社の失点だとも思います。
ただ「質問」という武器をもうちょっと上手く使えれば、彼はもっともっと成果を出すことが出来るだろうなー、
と思っていたことも確かではあります。

私自身
「質問は一種のプレゼンの手段であり、相手にも何かしらのプラス要素を期待させる」
「だから質問をするからには相手にも何かいい気分になってもらうことが望ましい」
と思っています。

例えばそれは、知識を伝えたことに対する感謝かも知れないし。
議論によって深まった知見かも知れないし。
あるいは承認欲求の充足かも知れない。

質問って案外色んな
「期待」のトリガーになるんですよ。

その期待を裏切ってしまっては、
相手の自分に対するマイナス印象も強くなる。
どうせ「質問」をするなら上手い具合にやりたいよなぁ…と思った次第です。

みなさまも
「心理的安全性」と
「ワークエンゲージメント」
を意識さして
何故働くのか…
を考えてもよいのと思います。

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