第1回 才能なくてもフリーランスで生きてきた私
肩書はいつも居心地悪い
しがないフリーのライターでありながら、「フリーライター」という言葉のひびきが私はどうしても好きになれません。
肩書をいれなくてはならないときには、とりあえず「ジャーナリスト」などとカッコつけているのですが、それは海外での呼び方の慣習にしたがっている程度のものであって、むしろ「レポーター」という呼び方が現状にいちばん近いような気がします。「ジャーナリスト」という肩書に深い意味をこめているわけではなく、写真は撮ってもフォトグラファーではないし、デザイナーでもない、書くこと話すことを伝える手段にしているという程度で、使っています。不謹慎かもしれませんが。
ですから、人から「ライターさん」と呼ばれたり、ましてや「ジャーナリストとして」などと言われたりするのは違和感をおぼえるのです。
30歳でフリーランスに
私が、フリーランスで仕事を始めたのは、30歳になる年、1987年でした。まさに日本はバブル経済に突き進む頃で、カタカナ職業にも、フリーランスにも、ネガティブなイメージはまったくありませんでした。その後、「フリーター」という言葉が生まれて、「フリーランス」も肩身が狭くなりましたが、当時、「フリー」は希望に満ち溢れていたのです。私自身、20代初め頃までは、そういう仕事の分野があるとは知りもしなかったのですが、常に自由を追い求める?私にとっては自然な成り行きだったというしかありません。
それはともかく、たいした才能もない私が、35年近くフリーランスでやってくることができたのは、やはりランジェリー(インナーウエア)という特定の分野があったからだと思います。
25歳から5年間、今は既にない『ボディファッションアーティクルス』というインナーウエア業界専門誌で、私は取材記者をしていました。
その会社を退職してフリーになってからは、ファッション・ライフスタイル全体に仕事の領域を広げていきましたが(といっても、銀行のシンクタンクの機関誌の仕事は長年していましたし、近年は老人介護施設情報誌の仕事も)、コアの部分にインナーウエアがあることは変わりませんでした。20代の貴重な時期に培った人間関係やネットワークというものは、想像以上に強固なものだったのです。
業界専門誌記者として5年
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