「人間関係は見かけと違う」ナンウマの野島脚本に救われた
最終回だったナンウマ(「何曜日に生まれたの」)
ここ最近、ずっと社会課題の中に自分の人生が埋没しそうになっていた。更年期の自律神経の乱れかもしれないし、誰かと本音で話せる空間が減ったせいなのかもしれない。
心を閉ざした相手とどうやって関係を作ればいいのか。
毎週、ナンウマを見ながら、引きこもりの主人公”すい”がどう描かれていくのか楽しみだった。
何かを失ったり手放したから、そこまで強く望まなかっただけ
心を揺さぶられる言葉は、脚本家ならではのもの。
そう言われて、私は何を失い、手放したのだろうと考え込んでしまった。ただ、なにかを強く望むことはしてない気がする。どこか諦めてるクセがあるのかもしれない。
だから最後は、やはり自分の意志の強さなのかな、と。
弱さの裏に強さも同じくらいある
最終回を終えて、私の中にある弱さも見えた。それは、主人公”すい”が、公文竜炎に語り掛けている言葉にあった。
自己肯定感が低い
私の正体も、それなのだと思う。
強い自分を作っていないと、崩れてしまいそうな心の弱さ。
そして、もう誰にも自分の心を踏み込ませたくないと頑なになっている。
だって誰かに同情して欲しいとは思ってはいないのだから
もう過去のことだと、何もなかったかのように振舞う。
傷付きから自分を守っているだけなのだ。
心を乱されたくないから、強さをあえて演出しているのかもしれない。
それは弱さを誰にも知られたくないと思っているからだ、と。
でも、公文竜炎が選んだように、
差し出された手を求めてゆく勇気さえあれば
実は、弱さと同じくらい、強さはその裏にあったことに気付くのかもしれない。勇気を出してみないとそれは、体感として気付けないのだけれど。
勝負に出た、主人公の行動に救われた
最近、よく聞く「誰一人取り残さない」のフレーズは
パフォーマンスなのか?と思えるくらい言葉に重みがない。
でも、ナンウマ(何曜日に生まれたの)は、「死にたがる彼女を1000回救う」の物語がベースにあって、それこそ社会的課題のある引きこもりの主人公”すい”が、最後は大切な人たちの心を揺さぶって、救ってみせた。
救いって、きっとそういうことなのだと思えた。
誰かとごはんを食べること、誰かに寄り添い、見返りのない行動に移すこと。1000回救うとは、リアルな世界で諦めずに寄り添い、行動していくだけなのかもしれない。
最後、公文竜炎に勝負を挑んだ”すい”。
誤魔化しの効かない公文竜炎を相手に、準備万端で挑む姿に心打たれた。
それでも最後の最後は、公文竜炎の仮面を剥ぎ、素に戻った三島公平自身に選ばせる。
見事だなーと思った。
全力投球の”すい”の姿は、優しくて強い。
勇気をもらいました。
行動してゆかなきゃだね。