過酷な修行と悟り
比叡山延暦寺に所属する
お坊さんが行う
『十二年籠山行』
のお話が上がってきていたので
修行と悟りについて
書いてみたいと思います
修行すれば悟れるのか?
それ自体は
悟れるかもしれないし
悟れないかもしれない
それでも
過酷な修行を行えば
自ずと気づきはおこるでしょう
悟るということは
すでに知っていたんだ
ということに気がつくこと
だと自分は思っているので
過酷な修行でその部分に
到達する確率はとても高いと思う
もともと私は悟りのための
修行は必要ないと感じているので
修行という行に対して
達成感を得るための
ものとしてしか
捉えていないのです
ただ、極限までに肉体に
負荷をかけて精神にも
負荷をかければ
自ずと肉体と魂(スピリット)
の分離は感じるはずなんですが
先ほどの荒行を達成した方は
世間でいう悟りは得ていないと
仰ってます
謙遜されているのかな?
それともほんとに
気づかなかったのかは
判りかねますが
自然と一体にはなったんではないでしょうか
自然と一体になると
感じるはずなんですけどね
なにか達成しなければとか
宗教的な縛りを持ち続けていたのかな
それでも偉業ではあるので
歴史に名を残すことにはなりましたね
達成した方々はそういう人生を
選んできたと思います
悟りや覚醒を目指す前に
生れてからの染まり切った
マインドのクリアランスから
入るとすんなんりと行くと思います
本日はふと気になったもので
ついついキーボードを叩いてしまいました
それでは、また次回
お会いしましょう
ご訪問、ありがとうございます!