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君の幸福を決める人 1

プロローグ

 この世界は、羨み、妬むほどに私の望むものが溢れ、この世界の不平等さを綴っている。かつてあれほど色を持っていた美しい世界は、■を見失った今の私には同じようには映らない。あの人のようになりたい。あれが欲しい。そんな考えは、空の鳥籠の中では虚しいだけである。
机の上を見る。台本には書かれているのは台詞だけではない。この台本に書かれた『私』への問いは、空っぽだったはずの私の中に眠る■を目覚めさせる。

『君の幸福は誰が決めるの?』

第一章

 桜が散り始め、花嵐が春も後半だと告げる。川には水辺の宝石が、緑がかった青色の羽毛を大きく羽ばたかせ、その長い嘴で巧みに狩りを行い再び姿を消す。そんな様子を見ながら故郷の景色をなんとなく思い浮かべ、朝日奈乃愛(あさひなのあ)は今日も帽子にサングラス、黒いマスクを身に着けた半ば不審者のような格好で最寄り駅の改札を通り抜ける。

「もしもしマネちゃん?なんか電車遅延しててやばいわ。十分くらい遅れるってそっち伝えといて。ごめんね、あとでまたDMしとくから。」

 朝日奈乃愛は齢二十の、若者からの人気急上昇中のモデルである。昨年秋に友人と原宿まで遊びに行った際に現在のアシスタントにスカウトされ、そこからは大学を中退し上京。そこから僅か一年の間に人気はエスカレーターの如く右肩上がりである。

今では週刊誌やファッションイベントで活躍する注目の新人モデルとして、巷では注目を浴びている。『マネちゃん』と呼ぶ乃愛のマネージャーは乃愛と年齢が近く、もはや仕事中以外では友達のように接している。

 乃愛には夢が無い。いや、正確にはあったというのが正しいだろう。幼少期には子役として芸能事務所で演技の経験を積み、卒業文集では「女優になって芸能界で仕事をしたい」と書いていた。
当時の乃愛は、自身に満ち溢れていた。しかし、受験をしてまで入学した中学校で、乃愛は自分の認識が甘かったと知る。有名な劇団員の卒業生がいることで有名なその中学校で、乃愛は演劇部に入部した。そこで出会った人たちは、皆がまるでプロの役者のように洗練された演技で舞台を作り上げていた。正直、心が折れたのだ。
単に心が弱い女だったと言えばそれまでだが、自分が一番なのだと思い込んでいた乃愛には、現実を知るというのはとても辛いことだった。演劇部は二年生の春に退部し、高校では夢を完全に諦めるどころか忘れ、これといって特筆するほどのことがないくらいに平凡な三年間を過ごした。

 それでも原宿でのスカウトを受け入れた理由。それは特にやりたいことがなかったから。ただそれだけである。かつての夢を失っていた乃愛は、未来に夢も希望も見ていない空っぽの人間だった。それでいて芸能界で生きることになるとは、まぁなんとも皮肉である。

 この一年間、モデルとしての仕事が始まり、雑誌や広告の撮影、ファッションショーやイベントへの参加、様々な仕事に流されるように取り組んできた。順調に売れている乃愛だが、当の本人はそんな感覚など微塵も感じておらず、ただ「やらされている」ように任された仕事を淡々とこなしているだけだった。夢を見失った今でも、モデルになって売れたり、仕事に貢献すれば自分の心が満たされるとばかり思っていた。しかしそうではないみたいだ。今でも彼女の空っぽの心は満たされない。

 目的地の駅に到着し、改札から出ると、乃愛はマネージャーに「もうすぐ着くよー」と一言連絡を入れて、撮影場所へと向かった。今日の撮影は、平日の人通りが少ない東京のとある公園である。川沿いに作られたこの公園は、まるで郊外に出たかと思うくらい自然が溢れていて、東京では珍しいような動物も生息しているらしい。

「遅れましたすみません!この衣装暑くて暑くて…。」

「遅延はまぁしょうがないですよ。あっちにメイクさんいるから、メイク直してもらったらカメラ入りますよ。」

 遅れた乃愛と、本人の遅刻で関係者に頭を下げまくっていたマネージャーがそんな会話をしていると、ふと青い鳥が横を飛んで通り過ぎていく。はっと息を吞み、乃愛はその鳥が飛んで行った方向を見る。緑がかった青色の羽毛を持つ水辺の宝石———カワセミは、空を舞うように華麗に羽ばたき、やがて姿を消した。

———あんな風に綺麗な姿で、自由に空を飛べたらなぁ。なんて言葉は、口からは出なかった。なんでこんなことを思ったかもわからない。
足元には、青い羽根が落ちていた。



原作:アオイエマ。『ナイモノネダリ』


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