ムニア・メドゥール監督「パピチャ」に寄せて
隅から隅まで素晴らしい映画に出会えたことに感謝しつつ、脚本も書いたムニア・メドゥール監督はどれほど涙を流しながらこの作品に挑んだであろうと想像した。事実に基づいた想像力が真実を生み出す瞬間に溢れた109分は、観る者の感情を激しく揺さぶりながら問い続ける。「生きる」と「生かされる」の違いは何だ、と。内戦、宗教的弾圧、テロなど様々な暴力に晒されながらも夢を追う誇り高き少女と友人たち、彼女たちを見守る母の姿に胸を打たれる。その反面、自分らしく生きようと闘う女性たちを破壊しようとする女たちも描かれ説得力がある。そして女たちの人生を決定付けるナンセンスな法や掟はちっぽけな男たちによってつくられ守られているという現実も見える。暗黒の10年と言われた時代のアルジェリアが舞台だが、「パピチャ」が描くのは今の世界であり、アジアであり、日本社会でもある。
陳腐なオススメレビューなんて書きたくないのだが褒めずにはいれらない。が、あぁっ!ここでの宿題は、人生においての私自身の選択について書いてほしいということだった。人生… 振り返るだけでも疲れるのだが、宣伝担当者の熱意に負かされ、暫く閉じてあった脳内日記帳を紐解いてみるとする。
人生で一度だけ「謝罪文を書け」と言われたことがある。悪いことをした覚えはないのに、直接知りもしない相手から、私の母を通して伝えられた、アドバイスぶった督促のような脅迫だった。初監督作品「ディア・ピョンヤン」(2005)を発表した後、大阪で暮らす母が、ピョンヤンで暮らす家族(息子たちと孫たち)に会うために、娘である私と一緒に北朝鮮を訪問したいと、ツアーへの参加を申請した時のことだ。日本と国交が無い北朝鮮に入国しそこで暮らす家族と会うためには、朝鮮総連が主催する<祖国訪問ツアー>に参加する必要がある。娘(私)への渡航許可が欲しかったら、謝罪文を書かせるか映画制作を止めさせろと言われ、母は怒り心頭に発した。ピョンヤンで暮らす家族のために北朝鮮政府を支持する立場を貫いてきた母であったが、咄嗟に「娘の性格はわかっています、あの娘は書かないと思いますよ!」と言い捨ててきたという。「文句があったら直接言うたらええのに!罰か見せしめか知らんけど、家族に会わせへんとか儒教の国の人間がやることかいな!卑怯や!情けない!」当事者の私よりも母が腹を立てていた。私は、組織と娘の間で板挟みになってしまった母に申し訳なく、ピョンヤンにいる家族も罰をうけるのではないかと気がかりだった。制作期間から心の中にあった心配が現実味を帯びてきた。「もし、ピョンヤンにいる家族が罰せられるとしたら?それでも映画をつくるのか?つくり続けるのか?」。私は自分に問い続けた。
映画監督としての私のスタートであるドキュメンタリー「ディア・ピョンヤン」では、大阪で暮らしていた父を主人公に、日本と北朝鮮で離れて暮らす私の家族を描いた。10年間に及ぶ制作期間、この1作を世に出すことだけを目標に生きていた。小さな手持ちカメラで大阪とピョンヤンを行き来しながら撮影したホームビデオのような作品だったが、ベルリン国際映画祭、サンダンス映画祭、山形ドキュメンタリー映画祭ほかで受賞し、気がつくと私は映画監督と呼ばれるようになっていた。
謝罪… いったい誰に何を謝れというのか。表現者としての自分が問われていると思った。「この1作だけ世に出せたら」と思っていたはずが、いつの間にか映画にしたい題材が増え心の中ではいくつもの物語を育て始めていた。つくることを諦めたくなかった。結論は簡単にでた。映画作りは止めない。私が何をつくるかは私が決める。他人に、ましてや政治団体に指図される筋合いはない。北朝鮮に家族がいる在日はピョンヤン政府の意向に従わざるをえない、という前例に加わるつもりもない。仮に、作品の被写体になった私の家族が謝罪や上映中止を求めるならば真摯に向き合うべきだろう。でも違った。「帰国事業」という触れられたくない歴史に光をあてる私への口封じだと感じた。「ディア・ピョンヤン」を世に出すという選択のために10年以上も悩んだが、発表後さらに酷な選択を迫られることになった。
ドキュメンタリー制作にあたっては被写体になる人物との合意に基づいた信頼関係が大切だ。他の国と違って北朝鮮の場合、個人の肖像権に対してもまずは政府の許可が必要になる。“政府の許可無しに外部の映画制作に協力した”というバカバカしい言いがかりで家族が罰せられる可能性もあることは最初から予想出来た。でも、政府にお伺いを立てて映画をつくることには興味が無かった。奴隷根性というのは染まるのは簡単でも抜け出すのに苦労するからだ。
10年間の撮影期間の後半、兄に正直に話した。カメラを持ってピョンヤンに通っているのは、単に家族の記録を残したいだけではなく、可能なら作品にして国内外の映画祭に挑戦したいと思っているからだと。ピョンヤンで暮らす兄の立場上、私への同意は禁物だ。私は言葉を選びながら誠心誠意の説明をし許しを請うた。家族を危険に晒すリスクがあるにもかかわらず映画を作りたいという妹のワガママを受け入れて欲しいと頭を下げた。「どんな映画になるんかな。俺らは見られへんやろけどな」と兄は大阪弁で言い、「お前の人生やからな」と笑った。2005年の北朝鮮訪問を最後に、私はピョンヤンの家族に会えないでいる。
「ヤンちゃん、器用にならなきゃ。サクッと謝罪文書いて、無視してまた映画作って、また謝罪文書いてって繰り返せばいいじゃん。大人はそうやって生きていくもんだよ」と言った知人がいた。笑いながら聞いていた私は「子供ですから。残酷に正直に生きていきますわ」と答えていた。
2009年、「ディア・ピョンヤン」のスピンオフ的な作品である「愛しきソナ」を発表した。ピョンヤンで生まれ育った姪っ子ソナの成長を描いたドキュメンタリーだ。家族の話は止めないし映画をつくり続けるぞ!という私なりの謝罪文代わりの返答でもある。
「愛しきソナ」を発表した2ヶ月後、大阪で父が亡くなった。病院のベッドで呼吸が荒くなる父の手を握りながら娘として父に伝えるべく最後の言葉を探した。「アボジ、ヨンヒの映画のせいで組織の中でしんどかったやろ。ごめんな。でもこれからも正直な映画つくると思う。お兄ちゃんに迷惑かかるかもやけど、アボジが怒るかもしらんけど…」言葉に詰まった。父は「お前が決めた道や。とっとことっとこ進んだらええ」と言い、その数時間後に息をひきとった。
劇映画「かぞくのくに」(2012)を経て、今「スープとイデオロギー」という新しいドキュメンタリー映画を完成させようとしている。母の人生を追ったこのドキュメンタリーで私の家族と半島の南である韓国との関係を初めて描く。「スープとイデオロギー」は「ディア・ピョンヤン」の最終章になるはず。家族史と向き合うという大きな課題に25年も費やしてしまったが、やっと新しいページに進めそうだ。そして改めて、映画をつくるという私の選択に挑んでみようと思っている。
By the way,
「パピチャ」というアルジェリアのスラングは、「愉快で魅力的で常識にとらわれない自由な女性」という意味らしい。なんとも元気が出る言葉、気に入った!目指してみよう!!haha
【著者】ヤン ヨンヒ(映画監督)
映画監督 filmmaker ◆映画「かぞくのくに 가족의 나라 Our Homeland」「Dear Pyongyang 디어 평양」 「愛しきソナ 굿바이 평양」 ◆book『朝鮮大学校物語』『兄 かぞくのくに』『가족의 나라』 ◆新作「スープとイデオロギー 」制作中。
Twitter https://twitter.com/yangyonghi
映画『パピチャ 未来へのランウェイ』【10/30(金)全国ロードショー】
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