『ドライブ・マイ・カー』感想
知らぬ間に握らせていないか。
はじめに
最初、わたしは映画を沢山観ていないからか、面白いのか、面白くないのかはよくわからなかった。
自分が映像を追いながら感じていた感覚と演出方法がどのようにリンクしているのか、映像が進む速度で理解しきれていない感覚があるからだ。
気になって調べた批評文には解釈の遅延が特徴の映画だと記されていた。もしそうならば、今から映画を振り返ることで発見が大いにあるかもしれない。だから感想、印象に残った場面をざっと書いていきたいと思う。
死の呪いなど知らないわたし
それでもこの映画で好きだと思えたことは、私たちは言葉を発しながらも言葉通りには繋がっていないことを示していたところである。
言語の壁、手話が、当たり前に繋がっていると思う部分の繋がりすら剥いでいく。
時間をかけて、繰り返し言葉を唱える役者たち。
それでやっと分からなかった言葉にも慣れてきて歩調が合うようになる。
言葉が違うことを知っている人は、歩調が合わないことで挫けない。自分を曲げない。それは時に思い遣りのない人に映る。
けれども、合わないのが当たり前だから、自分を殺さない優しさを持っている。
それが私の人生を自分で運転する、生きることになりうる。この映画で重要な、大事にした方がいいことに繋がるメッセージだと思う。
車に招き入れすぎた人生
彼は心酔させてくれる彼女にいつのまにか運転席まで捧げてしまっていた。唯一嫌いだった運転までさせてしまっていた。
好きは時に乗っ取りを起こしてしまう。
乗っ取りを望まない相手にさえ運転させ、気狂いを起こさせてしまうこともある。
運転していれば事故が起きるのは当たり前だ。同じ場所に留まることもある。それは居心地の良し悪しに関係なく。
だから、本当は事故も留まることも恐れるのではなく、仕方のないことだとして働くべきだった。
自分で事故を起こして、また運転を再開できれば良かったのだ。
事故を起こさず、故障も起こさず、それが幸せだと思って自分で運転しながら別の誰かに操縦させてしまった。視野の狭い人生が続いてしまっていた。
だから、運転席を無理矢理奪われたことが彼にとっても映画にとっても契機だった。
分かち合う受け皿たち
死者に囚われて、運転席を捧げてしまった彼らは煙草で追悼する。苦しみを分かち合って、踏ん切りを付ける。
他人を受け入れ続けた皿は、捧げても自分しか見えてこない苦しみを訴えかけてくれた。
運転席を他人に渡し、暴走しかけた3人は、同じ境遇にあるから共鳴し合い、やっと答えを知っていく。
自分を見ずに他人ばかり見て捧げてしまうと、数えきれない責任が降りかかる。
自分のために運転する車ほど快いものはないと知って、人生を進んでいく。
映し出される二人の人生は我々に自戒と希望を抱かせる。
では、最後に映し出されなかった彼はどうだったのだろう。
映像は見えていないもののためにある
彼は一身に彼女へ人生を捧げていた。
彼女との繋がりの場は家よりもセックスよりも車で、いつも彼女は車の中のカセットテープでまとわりつくように側にいた。
だから彼には車を捨てさせることでしか、彼の人生で彼自身の車を走らせることが出来ない。
そんなことが彼を映像では敢えて描かなかった理由の一つに感じる。
映像は真実と比喩を描き出してしまうから。
例えば、最後の運転は運転を楽しむ真実と自分自身の人生を楽しんでいくことの比喩が重なっている。
映像が映されないこともまた真実を描き出しているように思える。
彼が運転の呪いから抜け出せたこと。
彼女の映像だけが流れるから、運転の呪いが解けた彼にも、運転という映像に人生の比喩を感じ取れる。
この解釈が違っていたとしても、突然観察対象が途切れることは私たちに友人を失わせるような感覚を覚えさせる。長ければ長いほど、特別な映像ではなければないほどに。
そして私たちはその唐突な別れによって、彼らが死者に依存したように、知っている彼の人生を反芻させられる。そうした不思議な魅力が映像にはあると思わざるを得ない。
まとめ
未だに映画固有の魅力は分からない。
けれども、長い時間を共有した相手に思いを馳せ、主観と俯瞰を行き来しながら物事を考えたこの時間は面白かった。
見終えた後には明瞭に言葉にできなかった感覚も、言葉にしようとすると心に強く残る感覚も興味深い。
握ることも握らせることも怖いけど、握ればどこかで誰かと分かち合える。最後には救われる。それを信じて走らせろと強く言われることは、力になる。