『「忘れられないの。」?』
人生の時間の使い方について、自分はどうあるべきか悩んでいる。
きっかけ
それは、自分とは対照的な時間の使い方をする人間との出会いだった。
私には、好きなものは一つずつ噛みしめて大切にしたいと思うきらいがある。
好きな歌は繰り返し聴いて、理解の及ばない部分は言葉や解釈を調べる。一回きりで見るのが普通の映画や展覧会であれば、好きだと感じた部分をまた思い出せるように、見終えたあとに好きな部分を言葉に残す。
だから、趣味を摂取する時間だけでなく、自分の中で好きという塊を触ったり、眺めたりする時間が私にとってはかけがえのないものになる。
一方で、出会った人物は趣味を噛みしめることよりも、摂取する量や時間に重きを置いていた。
未知のものを知ることは面白く、心を満たしてくれる。
けれども、心を満たすことが目的ならば余韻に浸る時間が長ければ長いほど、満ち足りなくなる可能性が減って幸せではないのか。
この浮かび上がった疑問を元に、趣味における新規開拓と既存の反復はどのような影響を及ぼすものなのか、自分なりに分析したいと思う。
新規開拓のメリット・デメリット
私が思うそれは以下になる。
メリット
鑑賞データ量が蓄積される自分の趣向が掴みやすい。
つまらなかったものに対して負の感情を抱く時間が減る。
蓄積された知識によって新しい関心・趣向が生まれる。
趣向が変化した際に、自分の観たい作品を過去に視聴した作品のデータも元に探すことができるため、効率的である。
デメリット
記憶力の問題で、過去に見た作品の記憶が薄れてしまう。
既存の反復に時間が割けず、既知の作品を深掘りすれば見出せたはずの魅力に気付けない。
こうして羅列してみると、新規開拓はメリットばかりであるように感じる。
一方で、デメリットの過去に感動したものの記憶が薄れてしまうことはいかがなものだろうか。
私は自分の感動を蔑ろにしているようにも思えてしまう。
本当に大切なものは何か。
私は自分が過去に感動したものに愛着を持つ。
それが私であり、私たらしめるものであるからだ。
だから、好きなものに対してその糸口を忘れてしまっている自分が許せない。第三者から見たときに、自分の愛が嘘のように見えるのが耐えられない。
私が感じている愛には価値があって欲しく、同時に他者にもその愛が伝わって欲しいと思う。それが好きの最上級の形だと思うから。
粘着性が高く、波及性の高いものこそが強くそこに在るものになるはずだ。大切なものは消えるべきではないのだから、強くそこに在るべきだ。
…そう考えていた。
いつ勘違いしていたのだろう。
内容や構造を理解していることが、その時々の気持ちの具合と綺麗に比例していたことがあるだろうか?
忘れてしまうと、その時に感じていた感動は無かったことにされてしまうのだろうか?
記憶は失われても、それを経験した私というものは存在している。私はその失われた記憶がなければ成り立っていないはずの存在だ。
そう考えると、忘れてしまうことは第三者とのコミュニケーションなどで不利が働くことはあるが、趣味をツールとして取り扱っていない限り問題にならない。
どうやって過ごそうか、私の時間。
では、今の私が行ってる反芻する時間は無駄になるのか。決してそんなことはない。
これも忘れてしまった趣味で得られた感動に対してと同じ処理ができる。
新しい知識が得られていないからといって、既存の趣味を繰り返すことで得られていた幸せの度合いが変動するのかというとそうではない。
結局、新規開拓も既存の反復もどちらかに価値があるとは言い難いということだ。
まとめ
今回の思考でバイアスをかけていた要因である、自分を第三者の目で見た時に立派であるか精査すること。これをまず取っ払うことのほうが、自分の心を満たすには重要になってくるのではないだろうか。
(勿論、趣味を人と繋がるツールとしてる人にとっては第三者の目は欠かせないが、それは趣味が”人と繋がること”であり、第三者の目を想起することはその趣味の楽しみ方に過ぎないはずだ。)
自分自身にとってのみ、何が心を満たすのか考える癖をつけなければ、他人の感性と自分の感性の境目がわからなくなる。
それが一対一の話ならば、自分のことをかろうじての鮮明さで見ていることができるが、一般的な考え方と私を混同させてしまうと恐ろしいことになると思う。
不確定でまとめることなどできない有象無象の大衆の集合体、それこそが一般的な考え方。これが自分の幸せとリンクしてる確証などない。
だから時間の使い方は、自分の感覚に沿って日々更新していくしかないのだと思う。
今思うことは一つ。
違和感として引っかかったことを整理する際に鍵となったのは、私が新規開拓した作品で言われていたことばかりだった。
今はそういう時なのかもしれない。私が新しくなるときなのかもしれない。
対照的な時間の使い方をする人よ。自分が呑まれそうで抵抗したくもなるけれど、呑まれるほど惹かれるから真似ばかりしたくなる。昨日はあんなに呑まれることを恐れ、呑みたい衝動に駆られていたのに、こんなにも包まれたいと思うなんて。呑まれたくなるほどの敗北感が愛おしい。