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ずっと独身でいるつもり?感想

はじめに———記事を書いた理由

 今の私が感じたことを忘れていくのが嫌だ。良かったことは消えて、苦しさが残って、それが私の人生になる。教わったことを忘れて、つい5分前に製造された人間みたいになる。
そんなことが起きたら怖いし、私の好きな言葉が儚いものになるみたいで残念だ。
 実際は、その時を生き長らえればそれで良くて、過去や未来について考えることは無駄に等しいのかもしれないけれど。

それでも、現在の私が交わす言葉は過去が作った私の頭から生まれるものだ。恐らく。

 だから、大多数に向けた感想ではなくて、未来の私へ向けて残したいものを刻むようにして、ここには記録していこうと思う。

「孤独死は怖くないけど、一人で生きていくのが怖い」

 この映画を見た時に最初に惹かれた言葉。
死んでいった先は不明で、考える余地も必要性も低い。一方で、生きていくことは安易に想像できる。この前提条件を元に恐怖の感覚の発端まで辿っていきたい。

紐解く上で重要になるのは、この場面だろう。
映画終盤で、結婚して幸せになれないことを知った由紀乃が「死にたい」と叫び、自転車を途方もなく走らせた場面だ。
この場面で生まれた死への渇望は、死よりも生への恐怖が上回ったことを示していると思う。

 私たちは、本来ならば”不透明な死”より、”想像可能で幸福になる可能性のある生”を選ぶから生きている。しかし、時には幸福になる方法が見出せず、”苦しみが続く生”よりも”不透明な死”に幸福性を見出すから、由紀乃のように死にたくなるのではないだろうか。

(実際、死ぬという行動にまで起こす人間自体は少ないが。
刹那的に訪れた死への渇望も、常時ある死への恐怖に打ち消されるからなのか。もしくは、生きる楽しさが生や死の恐怖を上回ってくれているからなのか。)

 では、死を選ばずに孤独という恐怖、不幸な状態になりたくないという願望はどう叶えればいいのか?
それがこの映画で伝えようとしているメッセージだと私は思う。

映画の主題とは?

 この映画自体は、これまでの時代の型に沿う、もしくは前時代的な生き方に反発して生きること、どちらにも苦しみがあることを、鑑賞者に提起している。
だから、映画のタイトルである
「ずっと独身でいるつもり?」という呼びかけは、
「(やがて不幸になるにもかかわらず)ずっと独身でいるつもり?」という世間の偏見に対して、
「そもそも独身でいることは、幸福値に対して影響を与える必要・十分条件ではない」という意見を述べている映画に思える。

 その主張が顕著に現れているのはこの場面ではないだろうか。
中盤でまみの母が放った言葉。独身でなくても、一人で生きていく覚悟が必要なのだという諦めと愛情とエゴと無念、言葉にしきれないほど多様な気持ちに包まれた、その言葉だ。

男性軸の人生が基本になっている日本では、自分の主張を押し殺してはいけない。
彩佳が自分の時間を取れなくて苦しんでいるにもかかわらず、それを主張できずに自分の首を絞めていた場面も分かりやすい例だったように。

 つまり、家族になろうとも、人は誰しも自分の人生を一人で生きていて、その横に他人の人生があるだけで、自分の幸不幸の責任を他人は背負ってくれない。

(漫画『カイジ』を読んだことがある私は、それぞれの人生が孤独な光の道として存在しているイメージを思い出す。単に交信しかできない存在が人間なのだというあの主張を。)

だから、「一人で生きていくのが怖い」に生じている孤独という恐怖は、結婚しても独身でいても取り除けないものだと受容するしかない。そんなことを偏見ばかりの世の中に教えてくれているように私は感じる。

 そして、不幸な状態になりたくないという願望は、他の人生と比較して得る幸福を捨てることから始まるものだと言いたいのではないだろうか。SNSの描写がわかりやすく、実際の幸福と比例していないことを示していたいい例だったと思う。

きらきらしてる側の苦しみ

 話を少し変えて、映画を振り返って浮かんだ疑問について考えていきたい。
美穂の描写は何故存在していたのだろう。

前述したSNSの描写や集客的なキャッチーさなどさまざまな要因があるだろうが、大きな主題としての必要性はどこにあるのだろうか。

独身・既婚女性の型として対比的な由紀乃と彩佳。その間で揺らぐまみが、二項対立となっている世論を破壊する。そう考えると、この3人は主題を描くのに必要不可欠な存在になるのだが、美穂は?

 色々と考えた末辿り着いたものとしては、女性優位に見える関係性を築いている存在であるというが大きな要因だと考えた。

 夜のアンパンマン。印象的な言葉。狡猾的なp活・ギャラ飲み女子を、健気で自己犠牲的なキャラクターに喩える。ハリボテの幸せに風を吹かせ、中身の骨組みの弱さを実感させるような行為だ。

ここに肝があるように感じる。
他の3人だけでは、独身・既婚者のバイアスを剥がせるが、性による立場の優位性が幸不幸を左右するというバイアスは剥がせない。

そこで、女性優位の代表美穂と男性優位の代表芸人が登場したのではないだろうか。

男性側ですら生き残るために必死だ

 売れっ子の芸人の”男”ですら守りたい家庭のために自分を偽って生きている。いつ売れなくなるかわからないという恐怖に怯えて。そう、これも一種のハリボテの幸福ではないだろうか。

単なる独身・既婚が幸不幸を左右する問題ではないように、男性・女性でという区分も幸福度を左右する絶対的な要素ではない。

芸人は飲み会に来ず、愚痴を漏らし、家庭を養っていた。それは優位に立てているような人間ですら、周りに合わせることで心を擦り減らしながら生きていることの象徴だった。

 つまり、男と女という性による優位性が社会的にそれぞれ存在していたとしても、幸不幸には直接関与しない。むしろ苦しみはつきもので、不幸と共に歩みながら、幸福を目指すしかない。そんな人生において大事な価値観を、現代の我々に生じている偏見を取り除きながら伝えてくれていると私は感じた。

総括

 この映画では生きていくこと自体の怖さへの向き合い方を教えてくれている。

私たちは、平行線上で生きている他人と、たまに交信して幸せのために助け合ったり、支え合ったりする。

だけどそれは、交信する程度のことでしかなくて、自分の道を暗くすることも、途絶えさせることも、光を与えることも、大きく変えていくのは自分でしかできない。

 だから、つらいことがあっても、死にたいことがあっても、光る可能性があるなら、光らせるために自分の時間を使って、平行線上にある他所を見ずに前を見て、歩ませてみようよ。

逞しく生きたら幸せになったまみや彩佳みたいな存在もいるんだよ。美穂や由紀乃のように、これから始めてみる人も沢山いるんだからって。

最後に———私の言葉で

 今年ずっと考えてきたこと。
 この先、生きて何があるの?

死ぬのも怖いし、人生を暗くするのも嫌だし、でも人生を明るくできる自信もない。だから、もう幸せが訪れるほど死にたいと思った。自分のことに自信は持てないし、そんな自信のない自分を愛してくれる人なんていないから、死んだ方がいいんだって気持ちになりながら過ごしていた。でも、死ぬ勇気なんか全然無くて、家でだらだら過ごせる今の幸福に縋ってだらしなく生きてしまった。答えを探しながら。

そうしていく中で、この映画から幸せを掴むことは不幸がなくなることではないと分かった。自分の幸せを見つけることも、周囲との比較やカテゴライズによるバイアスを解いていかないと出会えない途方のないものだって。

幸福までの長い道のりで、

今生きている自分がバイアスの最中にあるということを、私の大好きな芸術やエンタメは教えてくれる。

大好きなものは少なくとも私の味方なんだ。

だから、自分の幸せを探しに行きたい。人に依存せずに、自分の時間を大切にしながら、人との交信で分かち合えた瞬間を尊びながら。
烏滸がましさとかハリボテの幸せとか自信の無さを埋めるような心の弱い私じゃなくて、不幸せも受け入れて、幸せに会いに行こうとする私になりたい。なりたいよ。

おまけ:好きな演出と内容の箇条書き

 整理したかった内容は以上だ。あとは、メモとして好きな内容を記して一旦終える。ちょっと眠くて疲れてしまったから、余裕があったら今後追記したい。

①出かける前の準備時間の使い方、部屋の汚さ
②まみと由紀乃の靴の差
③老いを感じる瞬間は朝のメイクで、現れる老いも覆い隠し方も感じ方も全部違う
④でもみんなの心の支えになる、一人ひとりこだわりのあるリップ 彼氏に本音を見せたかったのか、フォーマルな時に使う特別なリップなのか、普段の可愛らしいツヤピンクとは違う、マットなナチュラルベージュオレンジを選ぶまみ 大事な場面で悩むリップ
⑤妄想の中で暴言を吐くまみの彼氏 優しい言葉の暴力 直接的な暴力シーンはなくて、怪我で想像させられる優しさの裏に潜んだ暴力的な人間性
⑥電話で結婚をせがむ母親 直接会った時は旦那の願いか自分には叶えられなかった幸せを願って結婚をせがんでいた母が娘の不安に一番気づくこと 自分の叶えられないものを娘に叶えてほしいという優しさとエゴの愛 愛と分かりながらも強く当たるまみ
⑦最後の電話のシーン 確かな言葉はないけれど理解者であり味方でいてくれているのであろう母

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