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[演劇#004] 奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話|イキウメ

2024/08/17 @東京芸術劇場シアターイースト

怪談は 昔も今も 変わらない
東へ西へ 旅した八雲は 知っている
この世は実に 奇ッ怪だ

怪談が私たちを惹きつけるのは、何故だろう。怪談は不思議なことが起こるものだ。
私たちの日常では起こり得ないできごと。日常という枠組みを超えるできごと。
私たちはこの枠組みを少し、窮屈に感じている。それを壊してくれるのが楽しいのだろう。
現実をぶち壊せ、見えるものがすべてじゃない。
怪談はアナーキーだ。
そして私たちは心のどこかで、本当に日常の枠組みを超えた何かが存在することを信じている。怪談はその真実にも触れてくれる。
ここではないどこかや、なにか大きな存在を感じさせる。
怪談は怖いだけでなく、畏怖を呼び起こす。
そしてその畏怖は、どこか安心をもたらす。
ここではないどこかがある、そう信じることができる。
日常を、苦しみの中にいる人にとっては避難所となるのだ。
怪談は優しい。日常が揺らぎ、傾いている今、八雲の怪談は私たちに何を語りかけるだろう。


前川知大(脚本・演出)

東京芸術劇場公式サイトより

 2009年に初演を迎えて以来、15年ぶりとなる「奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話」が東京芸術劇場シアターイーストにて再演された。
 今作は古びた旅館を舞台に、とある怪奇的な事件の真相を追う物語である。その合間に、登場人物たちが代わる代わる語り部となり、時に演じ時に聞き役に転じながら八雲の怪談話が差し挟まれる。全5編からなるそれら怪談シーンはやがて、現在進行形で起こる”現実の”怪事件と接続し合い、次第に実世界と虚構の見境が無くなっていく。

 小泉八雲は*本名パトリック・ラフカディオ=ハーン、1850年アイルランド系ギリシャ生まれの小説家である。40までジャーナリストとして取材と執筆活動に明け暮れる中、ニューオーリンズでの万博で日本文化に魅了され来日。英語教師として教鞭をとる傍ら、翻訳・紀行文・再話文学のジャンルを中心に著作を遺し、名作「怪談」をまとめた。
 シンプルな文体で、怪奇の美と恐怖を語り、「雪女」や「耳なし芳一」など、人間と異界とのつながりの感覚を示唆する同書は、多くの言語に翻訳され世界中で読み継がれている。
(*参照:小泉八雲記念館公式サイト

 八雲は不慮の事故により、若くして左目を失明した。
 生涯ことばと音に向き合い、執筆を続けたであろう彼を尊重するかたちで、本作は終始それぞれの「語り」を意識していたように思えた(小説家の黒澤が「女将が語ってください」とガイドするように)。
 しかしながらそのスピリチュアルな世界と現実世界が、物語の進行とともに交錯し、溶け合っていく構成力は感嘆に値する。

写真提供:小泉八雲記念館/宣伝美術:鈴木成一デザイン室



盆の夜長に、世にも奇ッ怪な話がもの語られる

 上演の時分は、盆。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した通称「盂蘭盆会(うらぼんえ)」は、故人やご先祖様の霊を迎え供養する広く普及する伝統行事である。今作の冒頭、小説家・黒澤によって語られる「常識」でのお経を唱える一幕で、観衆はたちまちに演劇内の時間との共時性(シンクロニシティ)を体験する。

 信じ難く浮世だった怪談話はさまざまな語り部によって展開されながら、徐々に現実世界と結びつき、次第にリアル(真実)が分からなくなってくる。ホラーとサスペンスがバランスをとりながらもその合間にクスッと笑える小ネタが差し込まれ、なんとも飽きの来させない2時間であった。

撮影:田中亜紀



能の世界観とユングの集合的無意識

 来場して迎えるは、まるで能のような舞台である。
 絞られたスポットに照らされる中、鼓の音とともに役者たちが腰を落とし歩調を合わせてそろりそろりと入場する冒頭のシーンは、息を呑むほどに美しい。

 複数立ち並ぶ木柱と、砂利敷きの中庭(白洲)、それを取り囲むステージと両袖・奥に渡り廊下(板間)。中庭の下手側には祠、上手側には梅の木が植えられ、天井からは砂がサラサラと流れ落ちている。夢幻能にも見て取れる、対岸と彼岸を暗示する空間構成だ。
 *目に見えないモノや超現実的出来事を舞台化する能は、ゆかりのある場所に出現した霊魂(シテ)が、自らの過去を旅僧(ワキ)に語るという基本構想のもと、物語作品や軍記物、説話の類、あるいは非業な死を遂げた人物を取りあげ、過去を今に呼び戻し、現前化する。
 今作が能を参照しているのは自明である。
(*引用:『現代能楽集Ⅹ 幸福論』の解説(能・狂言研究家 小田幸子氏))

撮影:田中亜紀



反転する砂時計、輪廻転生する魂、語り継がれる物語

 セリフにも印象に残るものがあった。
「言語のすべての組合せを作った場合、過去現在未来の全てが記述することが可能だ」
「全てのことは既に起きてしまっていて、私たちがただそれを知らないだけ」
黒澤の一言、確かそのようなニュアンスだった。

 想起するのはユングの「集合的無意識」、個人の経験で獲得される意識を超越した、心の深層に潜在する人類共通のパターン(元型)で成立する「無意識の層」である。

 言葉も夢も霊も、あるいは人の情念も、私たちが意識していないだけで既にどこかにずっと存在しているのかもしれない。誰かが「語る」ことで初めて、その存在を知ることができる。つまり「語り」は無意識から意識へと転換するトリガーだ。

 警察官の田神は言った。「だったらお前が話せよ」と。

 当事者でも、そうでなくても良い。おぼつかない言い回しでも方言訛りがあったって良い。誰かが語ることで、沈殿し停滞した砂時計は反転し、物語が再開する。その繰り返しがハレとケ、ケガレの時空間をひっくり返し、生者と死者(霊)を邂逅させる。そして、生者に畏怖と安心を与える。

 折しも、盆。そして、終戦の日。
 舞台の天井から降り注ぐ砂のメタファーに気づいたとき、語ることの意味を知る。

撮影:田中亜紀


引用元|ステージナタリー


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