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【短編小説】レファレンスサービス


 本を読むということは、本来、もっと冒険的であったはずだ。
 数多ある本の中から己の琴線に触れるものを選び抜く様は、宝を探し出すような、希望に満ち溢れている行為であったはずなのだ。
 誰の意見も評価も必要ない。孤独で、しかし安心感のある、他には替え難い素晴らしい冒険の旅。
 だから私は昔から本屋や図書館が大好きであった――ように思う。
 現に今だって、私は図書館の前に立って居る。
 だが、どうにも記憶が曖昧だ。
 この図書館を訪れる以前の記憶が、ない。
 私は何者で、どこで生活を営んでいる者なのだろう。
 わからない。なにひとつとして、わからない。
 考えれば考えるほど、正体不明の己に対し、途轍もない嫌悪感が増産されていく。
「ああ、だから図書館なのか」
 不意に、私は自分が立っている場所に納得した。
 図書館には、調査相談窓口というものがある。そこでは様々な疑問について、膨大な資料の中から確実な一次資料を提示してくれるのだ。
 私は、自分のことを知る為に、図書館へ来たのだ。
 そう納得する自分と、図書館で人生相談の類は受け付けていないと否定する自分が、脳内で戦いを繰り広げている中、足は勝手に館内へと向かっていく。

「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、お掛けください」
 調査相談窓口のカウンターには司書が一人、椅子に座っており。私の来訪に気がつくと、椅子に座ったまま、わかりやすく仕事用の微笑を浮かべ。私に、カウンター前にある椅子に座るよう促してきた。
「なにをお探しですか?」
 私が椅子に座ったことを確認すると、司書は早速用件を聞き出そうとしてきた。
 当然だ。ここはそういう場所だ。なにも世間話をしに、ここへ来たわけではない。
「私には、私に関する記憶がなくて……」
 どう言語化したものだろうか。
 これは調査相談窓口の利用客によくあることなのだが、自分がなにを知りたいのかを明確化しないままやってくる人間は、まま居る。今日の私も、そのうちの一人というわけだ。
「私は、私のことを知りたくて来たんです」
 だから現状は、そう伝えることしかできなかった。
「なるほど。お調べいたしますので、少々お待ちください」
 今のやり取りのどこで調査への糸口を掴んだのか、司書はすぐに備えつけのパソコンになにかを入力し、調査を開始した。
 司書がどんな画面を見ているのか、こちらからは伺えない。しかし、無駄のない手つきでなにかを入力し、画面を確認し……という動作を繰り返している。
 図書館にはそれぞれ蔵書システムというものがあるし、この図書館には、私のような人間が来た際の調査方法がマニュアル化されているのかもしれない。そう思わせる手際の良さだった。
「お待たせいたしました。こちらの資料は如何でしょうか」
 しばらくの後、司書はそう言って、一冊の本を持ってきた。
 それは、桜色の本だった。
 表紙に絵も文字もなにもない、まっさらな装丁の本。ページ総数は、三百ページほどだろうか。
「確認させていただきます」
 そう断って、私は司書から提示された本を手に取った。見た目の割に、手に取りやすい重さの本だ。重過ぎず、軽過ぎず。手にしっくりと馴染む。
 ぱらぱらとページを捲っていく。
 どういう括りの本なのか、目次には人名がずらりと並んでいる。
 ふと、そのうちのひとつの名前に目が止まった。
 
 桜居さくらい宏次朗こうじろう
 
 その名前を見た途端、すとんと腑に落ちるように、これが私の名前なのだと思った。
 理由も論拠もない。しかし、桜居宏次朗という文字列を目にしたその瞬間に、これは私のものだと思ったのだ。それ以上のことは説明できない。
 目次が示すページに飛ぶと、桜居宏次朗の生まれについて記載されていた。
 
 桜居宏次朗。男。☓☓☓☓年☓月☓☓日、■■県立■■■病院にて生まれる。家族構成――父親・桜居■■■、母親・桜居■■、祖母・桜居■■。
 
 この本には、それ以上の情報は書かれていなかった。
 しかし逆に言えば、私の基礎的な情報は手に入ったとも言える。
 この本の情報を信じるのであれば、私は■■県出身の現在三十五歳の男性であることがはっきりしたのだ。それがわかっただけでも、自身の輪郭がはっきりしてきたようで、心が僅かに軽くなる。

「桜居宏次朗について、調べてもらえますか」
 桜色の本を司書に返し、私はさらに調査を依頼した。
「承知いたしました。少々お待ちください」
 司書は桜色の本を受け取ると、それを足元にあったブックトラックに入れ、再びパソコンを操作し始めた。
 静かな館内に、カタカタと司書がパソコンを操作する音だけが響く。館内に、他の利用者の姿は見当たらない。忙しなく歩き回る職員の足音は聞こえるが、ついぞ姿を見ることはなかった。
「お待たせいたしました。こちらの資料は如何でしょうか」
 そうして、次に司書が持ってきた資料は、さきほどの本同様まっさらな装丁の、青色の本だった。
「確認させていただきます」
 本を手に取り、目次に目を通す。
 様々な名前が羅列している目次の中から『桜居宏次朗』の項目を探し出し、該当ページを開く。
 
 桜居宏次朗。☓☓☓☓年三月■■村立■■小学校卒業。☓☓☓☓年四月■■村立■■中学校入学、☓☓☓☓年三月卒業。☓☓☓☓年四月■■県立■■■高等学校入学、☓☓☓☓年三月卒業。☓☓☓☓年四月私立■■■大学入学、☓☓☓☓年三月卒業。
 
 そこには、私の学歴の一切が記載されていた。
 大学卒業まで、留年することなくストレートに卒業している。
 そうだ。そうだった。
 私の両親はとても厳しい人間で、毎日、苦しいほどに勉強を強いられていた。勉強さえできていれば困ることはない、というのが口癖だった。友人を作ると苦い顔をされ、遊びに行こうとすると叱責された。私の学生時代とは、勉学一色だった。
 どうしてそんな教育方針だったのか、という点については、今は亡き姉の存在が大きかったように思う。
 私が幼い頃に亡くなった、歳の離れた一人の姉。
 姉は大学受験に失敗し、自ら命を絶った。
 自室のクローゼットで首を吊り冷たくなっている姉を発見したのは、私だった。
 『ごめんなさい』。
 遺書にはそれだけしか書かれていなかった。
 その日以降、両親は今度こそ失敗させないようにと、私に一層勉強を強要するようになったのである。
 今にして思えば、図書館とは、私にとってはほとんど唯一許された外出先であったと言って良い。
 他へ遊びにいくことができないぶん、私は物語の中でそれらを楽しんでいた。様々な冒険に出掛け、奇っ怪な体験をし、その素晴らしき物語に涙する。
 勉強の気晴らしに小説を読んでいると同級生に話すと、信じられないとでも言わんばかりの反応をされることも多々あった。が、私にとっての息抜きはそれしかなかったのだから仕方がない。流行りの映画も漫画も、私にとっては現実に存在しないものだったのだから。
 同級生を羨むことは、もちろんあった。しかし、「勉強さえできていれば困ることはない」という両親からの教えの下、私は将来の為に先行投資をしているのだと自身に言い聞かせ、凌いできたのだ。
 それなら。
 大学を卒業した私は、その後、一体どうなった?
 こんな状態でここに至っているということは、私は、先行投資に失敗したのではないか?

「すみません、これの続き……? のような資料はありますか?」
「それでしたら、こちらにございます」
 司書は、間髪入れずに一冊の本を差し出してきた。あまりの手際の良さに、ここまで調べる人間は、その本を続けて読む人間が多いのかもしれない、と思った。
「確認させていただきます」
 そう言って手に取ったのは、紫色の本だった。
 鮮やかというよりは、おどろおどろしい色合いのそれに、少しだけ中を確認するのを躊躇ってしまう。
 しかし、躊躇しているわけにもいかない。
 私は、私のことを知らなければならないのだ。
 何故?
 何故って、それが当然のことだからだ。わからないことや知らないことがあれば、調べる。ただそれだけのことだ。
 意を決して紫色の本を手に取り、開く。目次から『桜居宏次朗』の項目を探し出し、該当するページを開く。三冊目ともなると、その動きにも無駄がなくなってきたように思う。
 
 桜居宏次朗。職歴、なし。
 
 しかし、慣れた手つきで開いたページの先にあったのは、それだけだった。
 前後の項目は他人の情報で、私に関する記載はそこにそれだけしかない。
「……」
 堪らず、言葉を失う。
 私は、失敗していた。
 姉とは違うタイミングで、しかし、決定的な失敗を犯してしまっていた。
 就職ができていなければ、それまでの勉強の意味がない。私は大学卒業を期に、全てを無に帰してしまっていた。
 ああ、そうだ。
 失敗して、それまで積み上げてきたものを、全て無駄にして。
 私は、自室から出られなくなったのだ。
 十三年間。
 ずっとずっと。
 来る日も来る日も。
 ひとつの部屋の中に閉じこもって。
 変化が起こらない日常に安堵し、逃避していたのだ。
 現実から目を逸らして、そして、記憶を失ったとでもいうのだろうか。
 わからない。
 わからないのだから、調べないと。

「すみません、桜居宏次朗について、他に記載のある資料はありませんか」
「お調べ致します。少々お待ちください」
 司書はそう言って、パソコンを操作し始めた。
 しかし、これまでと違って検索に難航しているのか、なかなか資料が出てこない。何度もパソコンを操作しては席を立ち、書架から本を取ってきて内容をさらりと確認しては、該当なしと呟いて、検索を再開させる。その繰り返しだ。
 果たして、司書の頭の中ではどういった回路であれこれと検索をかけているのだろう。
 「調べる」という行為ひとつとっても、なかなかの技術が必要となる。
 こと図書館の蔵書検索については、昨今のインターネットのような曖昧な検索では検索に引っかかりにくい。該当しそうなキーワードを考え抜かなければならない点で言えば、如何に発想力があるか否か――言い換えれば、頭の中にどれだけ多くのデータベースを構築しているかが決め手になってくる。だからこそ「利用者がなにを知りたいのか」が明確になっていないと、検索ワードも限定されにくく、上辺だけなぞるような資料しかヒットしないのだ。
 翻って、先に私の行った「桜居宏次朗について、他に記載のある資料はあるか」という質問だが。分野も限定しないこの質問は、だから、資料を特定するまでにそれ相応に時間がかかって当然と言えよう。司書は今、あらゆる分野の資料に思考を巡らし、あれこれと確認を行ってくれているのだから。
「お待たせ致しました。こちらの資料は如何でしょうか」
 あれからどれくらいの時間が経った頃か、司書はそう言って私に一冊の本を提示した。
 司書から渡された本の装丁は、これまでと同じまっさらな装丁で、黒色の本だった。
「確認させていただきます」
 ごくりと生唾を飲み込み、私は本を手に取った。
 これまでと同様に、目次を確認し、該当するページを開く。
 
 桜居宏次朗。☓☓☓☓年☓月☓☓日――桜居■■■、桜居■■、桜居■■を殺害。
 同日――自宅にて縊死いし
 
 縊死。
 縊死とは、首を吊って死ぬことだったか。
 私は。
 私は、首を吊って自ら命を絶ったのか?
 ぐるぐると、視界が回るような感覚に陥る。
 ぐらぐらで、くらくらだ。
 現実味がない。
 しかし、本に書かれている情報は、ある意味絶対だ。本というものは、多くの人間が関わって作られる情報なのだから。一次情報であれば、尚更だ。
 この図書館で紹介してもらった本はどれも不可思議だが、どれも事実が書かれてあった。だからこの黒い本に書かれていることも事実に違いない。
 そうだ。
 そうだった。
 思い出した。
 私は確かに、この手で両親と祖母を殺した。
 きっかけは些細なことだった。
 両親は時折、自室に引きこもる私に正論を投げつけてくることがあった。
「就職先を見つけなさい」
「社会に出なさい」
「部屋から出なさい」
「とにかく早くまともになりなさい」
 気まぐれに、八つ当たりのように、延々とそんな言葉を投げつけられる。私はそれを受け止めることができず、ただただ投げられたボールで身体に痣を作っているような有り様だった。
 その日は、なんだかいつもより調子が悪かった。
 どうにも黒い感情が己の内側で渦巻いていて、自分で自分を制御できていない感覚があった。
 そんなときに限って、父から気まぐれの正論が投げつけられ――以降の記憶は、曖昧だ。
 気がつけば私は三人分の死体を前に、立ち尽くしていた。
 この手で、両親と祖母の命を奪ってしまった。
 その事実に、私は耐え切れなかった。
 自室に戻り、手近な電源コードで首を括るまで、なにも考えてはいなかった。恐怖に突き動かされ、衝動のままに、私は私の命を終了させた。
「……ここは、死後の世界ですか?」
 思わず、私は司書にそう尋ねた。
 司書はにっこりと微笑み、
「ここは図書館でございます」
とだけ言った。
 ああ、頭が混乱している。
 現実を、状況を、理解しきれない。
「他にお調べすることはございますか?」
 司書は淡々と、それだけ言った。
「……ありません」
 ぐらつく思考で、私はどうにか言葉を絞り出す。
「ありがとうございました」
 そう言って頭を下げ、私は席を立った。
 私はこれからどうなるのか。
 裁きにあうのだろうか。
 わからない。
 わからないことは、調べれば良い。
 けれど、今の私にそれをする気力はない。
 私はふらふらと、図書館の外へ向かう。
「またのご利用をお待ちしております」
 そんな私の背に、司書がそんな言葉を掛けてきた。
 それに応える気力など、あるはずもなかった。


  

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