パートナーに「休め」と言うために必要なものは、愛か資本かその両方か
『花束みたいな恋をした』を「ふーん」と思いながら、大変「ふーん」という気持ちで見て、一部限界労働PTSDフラッシュバックがあったものの、総論として「ふーん」という感想で見終わった。
自分たちが夢見る、満足する、したい生活をするには、資本主義社会の中では「お金」を対価に召喚しなくてはならないし、パートナーが疲弊していって変化してしまっている時に「休んでいいよ」と言えるのは、その「休んでいる」時の生活を肩代わりできる力がないといけないのだ。
私はパートナーを休職させたことがあるのだけど、その時に思ったことは「私が働いており、休めと言える経済力を持っていてよかった」ことだった。その視点で見たときに、この二人は結構な不均衡があったし、それは若さだけが理由じゃないなと感じた。
普通の(とは思っていない)大学生の破局までのお話
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ありがとうございます。『あなたの課金は、私の課金』を標語に経済をまわしていきましょう。