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理想という呪縛についてのお話

こんにちは、ぱんなこったです。

連日のニュースでは、九州を中心に豪雨災害の情報を頻繁に目にします。梅雨といえば、紫陽花の上にカタツムリという風情あるイメージだったのですが、近年はそうもいかないようですね。自然は容赦ないです。


今日はわたしの中で、一つの大きな気づきを得られました。その内容を、忘れないように書き留めておこうと思い執筆します。


わたしはとても、自分に対する理想が高いです。こうあるべき、もっとこうならなければならないと常に思っています。理性的であるべきで「羽目を外す」なんて考えられません。いつもどこか身構えていて、自分の中の本音や心の動きを素直に表には出せません。

とても窮屈だなぁと感じます。常に自分を監視していて、ダメ出ししているようです。本当ははしゃぎたくても、理性がそうさせてくれません。しんどい時も、「しんどい」とは言えず一人で抱え込んでしまいます。それなのに、自分が抱く「理想」にとらわれて、なかなか窮屈さから脱出できません。

どうしてわたしはこんなに理想が高いんだろう。自分に何もかもを求めるんだろうと、ずっと考えていました。いつからこんなに理想が高くなったんだろうと…。


子どもの頃のわたしは、とても優等生でした。大人の言うことをよく聞いて、やるべきことはやる、良い子でした。

特に学校の中ではその評価は非常に高く、わたしは「先生の理想を全て叶えた子」でした。成績優秀、授業態度も非常に良い、真面目、教師に従順、課外活動や部活動でも結果を残し、係や役員を率先して引き受け、生徒のリーダーとして、謙虚に献身的にこなす。制服を着崩すなんてもってのほか。こんなに扱いやすい生徒は、なかなかいなかったんじゃないかと、自分でも思います。先生から見ても生徒から見ても、わたしは優等生でした。

どうしてわたしは、こんなにも絵に描いたような優等生になったのかと考えました。

一言で言えば、生存戦略でした。学校というヒエラルキーで少しでも快適に過ごすための、唯一の手段だったんです。

思春期の教室の中は、ヒエラルキーがとても如実に現れます。ヒエラルキーが上の人間は自由に振る舞え、下の人間は我慢を強いられる。多かれ少なかれどこの教室でもそのような場面はあります。

ヒエラルキーの階級を定めるものは何か。

その答えはただ一つ。「センス」でした。

センスのあるものは上に立ち、センスの無いものは蔑まれる。それが、思春期のわたしが感じたヒエラルキーでした。ここでいうセンスとは、流行やオシャレといったものだけでなく、コミュニケーションにおけるセンスやその場の空気が読めるセンスなどです。要するにイケてるかイケてないかです。

わたしは、センスがありませんでした。

ヒエラルキーが上の人間は、自由に振る舞います。先生に平気でタメ口を話したり、授業中に騒いだり、制服を着崩したり。係や役員は、楽で簡単そうなものばかり選んで、座席は後ろの席をとりました。そしてセンスがある人の最大の特徴は、これだけ反抗しても、先生に嫌われることはないということでした。うまくとりつくのです。正直、うらやましくて仕方がありませんでした。これだけ自由にやって、先生のご加護を受けられるなんて、なんで世渡り上手なんだと。

ヒエラルキーが下の人間は、その逆です。上の人間がやりたくないことや避けたいことを全てやるのです。教室の中で自由に振る舞う人たちの代わりに、従順な役回りを引き受けるのです。そして先生からの信頼を得ることで、その教室内での居場所をなんとか確保する。それが、わたしの解釈した教室の縮図でした。

わたしはセンスがない、よってヒエラルキーの上には立てない。でも教室でひもじい思いをしたくもない。ヒエラルキーの下にいる人間に対する扱いを、わたしはよく知っていた。上の人間に見下されたくなかった。だからわたしは、みんなの理想になったんです。

学校という場所における理想とは、つまり優等生。勉強もできて部活もできる。性格も良くて学級委員や生徒会もやっちゃうような、絵に描いたような優等生。これしかありませんでした。そしてわたしには、優等生になれるだけの素養があった。自己犠牲的に役割をこなすわたしにはうってつけだったのです。みんなが思っているであろう理想を叶えることによって、わたしはヒエラルキーの全階級からの支持を得て、自分の居場所を守りました。


今のわたしが、理想という呪縛から逃れられないのは、そんな考えが根底にあるからです。理想の自分でいることで存在意義がある、理想を叶えなければわたしは生きる価値がない。そういう思いが、心の底にあるからです。

そして、「はしゃげない」「羽目を外せない」のは、あの時わたしたちを牛耳って自由に振る舞い、羽目を外していたヒエラルキーの上流階級に対する憎しみと恐怖があるからです。わたしもあなたたちのように自由に振る舞いたい。でもセンスがないから許されない。センスがない自分が羽目を外したところで誰も相手にしてくれない。そして、羽目を外すことであの時わたしたちを牛耳った奴らと一緒になりたくない。そんな憎しみと恐怖が、私を縛り付けているように感じます。


理想なんて、あってないようなものです。学校という閉ざされた空間は、教師という上からの指令に応えればそれでいい単純な世界でした。しかし、大人になり社会に出るにつれ、理想というものはとても曖昧になります。特に、オリジナリティが求められる昨今では、理想なんて十人十色で全ての人の望みを叶えることなんて不可能です。

そんなこと頭ではわかっています。わかっているのに、私はいまだに自分にかけた理想という呪縛から逃げられません。周りから求められる理想ではなく、自分に求める理想によって、わたしはいまとても窮屈な生活をしています。

それでも、今日こうして理想に対する自分の中の気づきを一つ得られました。この気づきをヒントに、少しずつ自分の存在意義を広く肯定していけたらいいのかなと思います。理想なんてあってないようなもの。であれば、そんな曖昧なもので自分を縛り付けるより、自身の心の奥から湧き出る好奇心や興奮に素直になった方が、きっと楽しいですよね。


特にこれといったオチのないまま、今日は終わります。自分の頭の中を整理できたので、わたしは満足です☺︎

ぱんなこった


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