神の目で仕事しない。
大きな組織で仕事をするときは、まず組織図、体制図をもらうようにしている。その組織の見取り図みたいなもので、これがないと話にならない。
DXの仕事ともなると、顔を合わせる人の数も多く、誰がどういう立ち位置の人なのか分かっていないと実のある会話にもならない。分からないまま会話を増やし、人も増えると、混乱をきたし始める。
なので、この仕事のご近所さんが誰なのか、どういう関係になりそうなのかを知るのはとてつもなく大事。中にいる人は「そんなの当たり前」と思うかもしれないが、この手の図表が外部には基本的に開放されていないものだったりするので言わないと得られないのである。
その上で、思う。大きな組織にいれば、この図表が仕事の手がかりで、そしてこの図表の上で仕事ができてしまうのだろう、と。
ある施策を打っていくにして、図表の上層においては「決めて、やると号令する」ところまでがひと仕事。それ以降は体制図上の以降の層にお任せ。なんて危なかっしい組織運営なんだろうと思う。施策を受け止める側は、何かを入力すれば期待どおりの反応を返してくる機械ではない。人なのだから、受け止め方、理解の深さは人それぞれが当たり前だ。
ところが、不思議なことに組織図、体制図を見ていると、そう思わなくなる。この会議で、決めたら、あとは組織が動いていく錯覚に陥る。「個々人」がある層以降は「モブ」の認識になってしまいやすい。
体制図は参画する人々の頭の中で同じようにイメージされていなければ、全体として何も表現していないに等しい。全体として何かを表現した気になれる罠がある。そして、体制のイメージが仮に頭にあったとしても、先に言ったとおり、そこからそれぞれの解釈が始まるのだ。他意なく違う理解をしてしまうこともあるし、意図的に曲解しようとすることもある。だから、決めることは仕事の終わりではなく、始まりでしかない。
組織図、体制図を通して、組織を俯瞰する目がなければ、群盲象を撫でる、何も見えてこない。だから、まず俯瞰を手にしなければならない。しかし、それは神の目などではない。神の目で仕事をし始めると、大本営発表さながらの世界。現実 (結果) が遠のいていく。俯瞰しながら、詳細の世界である現場が機能するように働きかけ、後援していく必要がある。
そう考えると、現場における「チーム」が、とてもつもなく重要な概念であるということに辿り着ける。それは、もちろん、理念的なチーム至上主義からではない。価値実装の最小実行単位たる「チーム」が機能しなければ、組織で何考えてもムダだ、ということだ。