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アジャイルを「共有」するのではなく、「共通」にする

 「アジャイルな事業・組織を目指したい。どのように取り入れていけば良いか」という設問に出会うことが増えている。

 この手の表明に、「そのアジャイルは、Doなのか、Beなのか」といった打ち返しだけをしていれば良い時代は、とっくに終わっている。とてつもないビハインドを背負った現代組織が、変わっていくための手がかりを得るためには、またとない機運として活用する必要がある。
 Doなのか、Beなのかという以前に、「アジャイル」という言葉を手にし、何かしらの組織的活動を始めようとしているだけでもチャンスに他ならない。

 また、5年、10年前に比べれば、手順・プロセスをこなす感は格段に経っている。マインドセットへの言及がごく自然に伴うようになっている。これまでの数多くの人たちによる、発信・伝導の賜物なのだと思う。
 1年、2年で見れば大した変化が起きていないように思えるかもしれないが、「アジャイル」に関わる環境、流れも、確実に変わってきているのだ。

 その上で、やはりぶつかるのが、「的外れのアジャイル」だ。

 アジャイルを杓子定規にとらえて、的外れな理解のまま立ち止まっている。あるいは、的はずれな理解で、組織内をそのまま押していってしまう。そして、聞きかじっただけのアジャイル開発をそのまま組織・業務運用に適用してしまう。一昔前の「アジャイル教条主義」が息を吹き返すのを見ることもある。

 その結果は、「これまで」と「これから」の間の対立構造、ハレーションの発生。もしくは、志ある人から人知れず絶望して組織を去ってしまう事態。いずれもデジャブでしかない。20年のアジャイルの営みの中で、繰り返しみてきた構造だ。アジャイルがマジョリティに達した現代において、その光景を目の当たりにするのは回避しようがないことと言える。

 なまじっか「アジャイル的な活動、プロジェクト」を行った人は、その組織にとって極めて貴重な経験者となる。さっそく、社内のエヴァンジェリストの道を駆け始めることになる。おいおい、n=1あるいはn=0.1の経験を、組織的アジャイルの礎にしてしまって大丈夫か。そんな声すらも経験値自体が少ない組織ではあがりにくい。

 これもすでに見てきた世界だ。はじめてスクラムマスターを務めたメンバーに待っているのは、早速そのスクラムを他へと展開する役回りだ。しかし、そんなに単純なものではない。アジャイルが、というよりは私達が取り組んでいる仕事自体が、だ。一問解いただけでは、迫りくる応用問題に対処できるほどの「型」にはならない。

 金科玉条の「型」を作り切ってしまおうとする前に、「共通の体験」を増やそう。組織アジャイルを進展させようとする人たち同士で、アジャイルに関する経験を共通させるのだ。共有ではない、共通だ。
 つまり、伝え聞くだけではなく、ある活動なりプロジェクトなりについて、実際にアジャイルに則り、ともに取り組む。共通の経験が得られれば、「あの時はこうした」「あれはこうだった」と言った具合に、あれとかこれの中身が同じになる。その上で、どのようにすれば応用問題が解けそうか、次に向き合う仮説を立てる。

 この、あれとか、これとかが指す、共通の体験が無いと、常に情報・知識には差が生まれる。この差が、「でも、こうしたほうが良いのでは?」とか、「本当のところどうなのだろう?」といった疑問の芽を封じてしまう。あの人のほうが知ってる、分かっている、その空気感が思考停止を導く。そうして、n=0.1くらいのか細い経験をもとに、すべてを決することになる。

 アジャイルは思考法でも、理論でもない。それ以上に、実践的な営みなのだ。なおさら、まず経験から学ぼうとすることが先立つようにしたい。

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