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変革のリーダーに捧げるレクイエム

DXとは何の「十字架」なのか

 DXという旗の下で、実質的にその旗振りを行う"リーダー"の苦悩は深い。私の関係する組織の顔ぶれを思い起こしてみても、らくらくで進めています、ということは誰一人いない。
 皆、何かを背負い、その重みを全身で受け止めながら一歩一歩歩み進めている。DXとは罪と罰の十字架のようなものであったのか、錯覚するくらいだ。その重みは現実のものだが、それを一身に一人で背負わなければならないということは勘違いであってほしいと思う。

 よくみるとリーダーの受け止め方は様々だ。経営と現場の板挟みに日々悩まされている。(リーダーは)自分の役割ではないと目をつぶってしまっている。まるで柳のように揺れながら受け止めるようで受け流している。
 最後の場合でも、何かしらの大望を自分の中に忍ばせていることもある。「これをやりきったら、俺、自分の本当にやりたいことやるんだ…」
 DXにおけるやりきりとは何か。経営が任期を迎えてしまうことか、それとも予算が尽きるときか。フラグでしかないなと思う一方で、伴走支援として当事者の一端を担う私にも同じ感覚はある。

自分の中の「原動力」のつくりかた

 「自分は何者なのか?」という自己パーパスのむきなおりから始めて、自分の中に使命感にも似た自分を突き動かす何かを作っている。40代にもなれば果たすべき責任というものがあるはずだ、と。

https://note.com/papanda0806/n/na4a6a40df0ad

 こうした使命感は利己ではないし、利他というわけでもない。自分も含めた、その場にいる全員を対象としている。「その場」の広さをどう取るのか。それが年数を重ねてきた分、広げ方、捉え方があるのではないかというのが持論。

 使命感でもって、状況を乗り越えようという意志を補完している。だからこそ、持続が難しいと分かっている。こういう感覚で何年もやれないと自分でも分かっている。それでも、誰かが踏んだアクセルが他の誰かへの玉突きとなって、変化のモメンタムとなるのではないか。そこに賭けている。
 持続性がもとよりないのはわかっているので、あえて自ら期限を切る。期限を切ることで、逆に自分への心理的安全になる。あと5年で良いのか、といったエクスキューズが自分の支えになる。

心の傾きをゼロにしない

 それでも日常で心が折れることは当然ある。そんなときは近くの海に行って、波の引いては寄せを呆然と眺めるようにしている。自然の織りなす永久的な動きを見ていると、自分の作為的な行動もその結果も大したことがないものと思えるようになる。またやれば良いか。
 あるいは、そうした引いて寄せてを眺めながらこうも考える。自分の心の傾きについて思いをはせる。
「今は心がここにないが、次の瞬間に自分の心の傾きがゼロではないとしたら、俺は何をしているだろうか」と。

https://www.docswell.com/s/papanda/5L313K-ss-251352643

 この客観的に自分の行動を想像してみるというのが、自分に次の方向感を与えることになる。もし傾きがゼロではないならば、また相手に諦めずに働きかけを行っているだろう、などと風景を想像する。
 まだ働きかける言葉を持っているということか、と自分で気づく。もちろん、その相手への問いかけが上手くいくとは限らない。それでも答えがないのだから、きっと問いかけをしているはずだ。それはやってみても良いのではないか。
 繰り返される波の引いては寄せとともに、私の心にも少し鼓動が返ってくる。明日のあさ、もう1回だけ問うてみよう、と。

自らはじめた物語を、自分の手で終わらせる

 伝統的で大きな組織におけるDX、変革とはやはりスタートアップに他ならないと思う。望む、望まない関係なく、現場の前線にいるリーダーは"変革のCEO"であることが求められる。一寸先が分からない、最高に不確実な状況。想定外のことが起こる。
 サービスが売れないとかそういった切り口のことではない。想定もしていなかった「組織の判断」というのが起こる。人員の異動、役員の変動、組織体制の組み換え。もとより想定不可能なことなのだから、受け入れるより他ない。これが自ら事業と組織を興し進めているときの感覚と近い。
 そんな無理ゲーありえないと思うかもしれない。分かっていてプレイしているつもりでも、いざその瞬間を迎えると思う。それはさすがにあんまりだと。その通りだと思う。それでも。あなたは自分の作った「けもの道」を辿ってきてくれる仲間のために、この道をどこかに辿り着かせることだけはしなけれならない。

 そこまでの仕事とは聞いてない、とてもではないけど割に合わない。その気持は分かる。使命感だとか、期間限りだとか、海の引いて寄せてだとか、そんなことで支えきれない思いがあるのは一緒に走っているのだから私にもよく分かる。自分の人生だ。最後は自分でもちろん決めることだ。

 ただ、まがり何もあなたが書き始めた「物語」に加わり、ともに在る人達が歴然として出てきている。最初は全くといっていいほど存在しなかった「読み手」もついてきている。そういう人に向けて、「物語」をどうにかして続けるのか、それとも終わらせるのか。あるいは、自分とは違う新たな書き手を見つけるのか。自ら執筆の方向性を決めなければならない。
 いかなる選択がありえても、「未完の完」はない。どんな小さな終わりでも、しょぼくれた結末でも良い。「書き手」の最後の役割とは、この世の中に一つでも希望を残すこと。その希望は誰かにとっての点となりえる。その点がまた自分には想像もつかない点との繋がりを得るかもしれない。それが最後の希望であり、最後に報いる一矢だ。

 気分は、俺の屍を越えていけ、だ。長く大きな組織においては、そんなこともあったかな、というくらいで朽ち果てにしかならないかもしれない。そこまでやればもう良いじゃないか。あとは次にやってくるものに任せよう。

 そう。いつかは踏み越えていく、そんなリーダーの背中のことを。みんなには覚えておいてほしい。


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