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仮説に求めるのは「資料の枚数」ではなく、「観点間の距離」
50枚を超えるプレゼンテーション資料の解説を一方的に聴く時間に価値を感じることはほんどない。多くの場合、そのツールが本来想定する「プレゼン」のための表現にはなっておらず、企画・計画の説明書、マニュアルのようになっている。一枚一枚に出来る限りのオブジェクトが敷き詰められ、カラフルなテトリスを思わせる。「価値がない」、その強い言葉ほどに内容に問題があるわけではない。ただ、分からないのだ。
分からないから、ろくなフィードバックもあがらない。フィードバックがなければ企画や計画の内容も磨かれていかない。初期段階では許容できる「穴」もそのまま残り続け、後になるほどそれは致命的になっていく。そして、ツッコミを免れた資料はそのまま、なんとなく承認されている空気感を作り、後になるほど変えにくくなる。
企画や計画の仮説ほど、たたき台を早く用意し、さまざまなフィードバックにさらされた方が良い。この動きが出来ないとなると、冒頭の通り、確かに「価値がない」に陥ってしまう。
しかし、資料が厚くなってしまうのは分かる。プロダクトや事業を語る上での観点は実に多い。目的と背景、ターゲットユーザー、解決する課題、提供価値、主要機能、差別化のポイント、収益モデル、市場規模・競合分析、スケジュール、必要リソース、評価指標…。それぞれにそれっぽいフレームワークを担ぎ出すと50枚を簡単に超えることになる(3C、SWOT、STP、4Pモデル、ペルソナ、カスタマージャーニー…)。
どれも必要な情報を表現しているはずだ。資料が厚いといって、ペルソナが外せるか? カスタマージャーニーがなくて、顧客のインサイトが想像できるか? そうした情報を端折った資料で企画の良し悪しが判断できるというのか。と、言われると、書き手も受け取り手も、厚々の資料を選択せざる得なくなる。
ただ、そうした資料ほど、「収益モデルがまだほぼ書かれていないけど、これは?」という質問には「まだそこまでは」。「このプロダクトを実現した後の次の展開は?」という質問には「まずはMVPに集中して(まだ考えていない)」。という具合に、厚さに反して仮説立てられていないところが結構あったりする。
この手の、「その時点での仮説の立て具合として十分かどうか」という見方は、50枚の中でどこに何がどういう意図で書かれているかをきちんと見抜かなければ正しく判断ができない。この観点は…そうかまだないから、それは除いて、仮説のフィットとして十分かどうか…でも顧客像もさっきの説明ではまだ想像でしかないのだよね…それを踏まえて、今時点で言えることは…。結果、まともなフィードバックが作れない。
資料が厚くて読み解けない問題とほぼ同時にあるのが、「仮説を講じる上で捉えるべき観点への網羅ができてない」問題であり、ここが先に述べた「穴」の話に通じる。捉えるべき観点が考えきれていないのは、実は網羅性をあげようとするとその分厚い資料を作らなければならないから、ではないか。なおさら、過剰なページをいちいちつくる必要はなく、まずは捉えるべき観点に真っ直ぐ端的に答えられるようにした方が良い。
言ってみれば、観点の間の距離が「遠い」のだ。
「まず市場分析と競合調査をしっかりとやりました、次の二週間で顧客像や課題の仮説を考えます。その収益モデルはさらに先でおいおい考えます」では、観点と観点の間が遠すぎて全体としての見通しがいつまでも立たない。部分部分の仮説を順次でじっくり積み上げていくのではなく、捉えるべき観点についての「全体」を浅くても良いから仮説として表す。それから、より深掘りする観点を特定し、調査や検証を進めて明らかにしていく。
50枚の資料は、たいていこの観点の間の距離が遠い(それは枚数的な意味で物理的にも遠い)。この距離感が作り手の仮説立案を間延びしたものにし、結果としてその中身も台無しにしてしまう。
だからこそ、キャンバスを書こうという話。
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長くこういうものを作り続けてきて、いまだ発見がある。キャンバスの形態としての意味とは、観点の距離を縮めることにある。この距離の概念は、甘くみないほうがいい。