学びの密度を上げる。
コルブの経験学習モデルを使って、読書と執筆での学びを整理した。
このモデルを使って、主に仕事の上で、より効果的な経験学習「学びの密度を上げる」ためにはどういう状態を目指せば良いのか考えてみた。
具体的経験の密度を上げる
経験を増やす、つまり仕事をたくさんこなす、多くのアウトプットを出力するよう努める。この密度を突出させて上げていくと、このモデルの回転が間に合わず、多くの経験が「やっただけ」で終わる可能性が高い。
仕事であればアウトプットに伴う対価は増えるかもしれないが、やたらめったら忙しいだけで学び薄いという状況になりうる。仕事量が増えるということは、その分他のこと(内省、概念化、実験)に時間の配分ができないからだ。
この状況は危険だ。そして、私もこの5年ほどはどちらかというと「経験過多」にあった。この5年は会社の立ち上げということで、それまでの人生には無いくらい仕事を気張っていた。物理的な時間の意味でそれまでの仕事量の2〜3倍、質的な意味ではもっと何倍もの仕事をこなしてきた。
自分の場合は、幸いというか人前で話をする講演や執筆の機会があったため、蓄積された具体的経験を解きほぐすことや概念化を少なからず出来てきたとは思う。だが、経験量に比べれば少ない。もったいないことをしてきた。
内省的観察の密度を上げる
内省、ふりかえりに多くの時間を費やす。この密度を突出的に上げると、思考が内に篭りすぎることになる。経験の量が足りないため、思考や想像による情報の拡張を行うことになる。
そのような内省から生まれる抽象的概念というのは、経験による裏打ちが足りておらず、見当はずれ、現実ばなれ、独りよがりなものに成りかねない。
抽象的概念化の密度を上げる
概念化、理論づくりに時間を費やす。この密度を上げると、精緻な方法論が組み上がるかもしれないが、理屈先行になりかねない。
言語的、あるいはビジュアル的に内容はよく練られているかもしれないが、やはり現実離れ、机上の空論になりうる。それでは実際の問題解決の用をなさない。理屈屋が描いたキレイに整理されただけの論理構造を押し付けられる現場や組織はたまったものではない。
能動的実験の密度を上げる
仮説を立てて、検証することに時間を費やす。この密度を極めて高めると、分かること(あるいは分からないこと)は圧倒的に増えていくが、現実の問題解決は一向に進まない。
「実験し学びを得る」という行為自体は現実世界ではたいてい不足しがちなので、一般論としてもっと行うべきだと言うことになりやすい。だが、着地イメージ(実験結果を活用する先、テーマや時間的なターゲット)が無い実験もまた仕事の上では用をなさず、その分機会損失を生みかねない。
タスクの密度ではなく、回転の密度を上げる
つまり、このモデル4つのタスクについて、それぞれの密度に偏りをつくってしまうと、かえって損失を生み出しかねない。全体からみると、偏りのあるタスクがボトルネックとなり、このモデルの上を流れるはずの「学び」が滞ってしまうことになる。
このモデル上では「情報」「理解」「知識」「学び」が流れているはずだ(あくまで私の考え)。
具体的な経験という「情報」をインプットに、内省することで「理解」を得る。「やったこと」から「分かったこと」を取り出すわけである。それぞれの情報の意味付けを行う。
得られた「理解」と既存の知識とを組み合わせ、新たな「知識」を生み出す。分かったことを知識に昇華させることで、今後の活動での利用を可能にする。
新たな「知識」はまだ裏打ちが足りない。実験によって、確からしさを高める。実験で得られたフィードバックから内容を修整し、確からしさが高まった知識は実践に耐えうるものになる。また、実験を行っておくと、その知識を実践で活用する当事者としての準備が整う。
こうして、実践に投入可能な知識の状態が「学び」であり、これを得るために、このモデルのサイクルを辿るわけだ。ゆえに、効果的に学びを得ていくためには、それぞれのタスクの密度を上げることに着目するのではなく、このモデル上のフロー(流れ)に滞りがないこと、回転を速めることを目指したい。
それぞれのタスクで得られる情報、理解、知識の量は相対的に落ちるかもしれないが、フローが良くなると回転の密度が高まる。
一方、どこかのタスクが滞ると、得られる学びはいつまで経ってもゼロである。学びがゼロのまま具体的経験を重ねるより、1でも2でも学びを得た上で実践を重ねていく方が仕事の質は上がる。
そして、自身の出来ることが増えると、新たな経験が獲得できる。それは、次の学びを得る可能性を高めることになる。