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自分で立てた仮説だからこそ、どう扱うべきかも自分で分かる

 プロダクト作りにおいても、プロジェクト仕事においても、組織活動のあらゆる取り組みにおいて「自分なりの仮説を立てて臨む」という行為は欠かすことができない。仮説を立てなく良い仕事など存在しない、と言って良いくらい。

 プロダクトレベルでの仮説もあれば、「いつもの定例ミーティングをもっとより良くするためには?」といったタスクレベルでも仮説は必要になる。つまり、日々において、もっというと毎時間において、大小の様々な仮説が存在しうる。
 自分なりの仮説が無いとしたら、起きていることに身を任せることになる。それは誰かの仮説に乗って動いているか、あるいは誰にも仮説などなく、みんなで状況に身を委ねているだけかもしれない。

時を送ってみる

 もちろん、成り行きに任せることが悪いわけではない。仮説を立てようがない、仮説を立てる意味がない(時間の無駄になる)場合もある。そんなときは私は「時を送ってみる」と表現して、成り行きを選択している。
 「時を送る」という判断には一つ内在している「約束」がある。それは一定期間後にもう一度状況を見よう、という定点観測の約束である。「今は何かを判断したり、仮説を立てるのに情報が足りていない」ならば時間を先送ってみる。そして一週間後にもう一度状況を確かめ合う。情報が増えていれば、新たな判断ができる可能性もある。そうした約束もなければ、ただの放置でしかない。

 「時を送る」場合は、かなり状況が分からない、読めない局面にあると言える。日々においてそういう局面が多くなるかどうかは、自身の仮説を立てる力量に依るところがある。つまり、同じ局面にあっても、「時を送る」判断しかできない人もいれば、「仮説を立てられる」人もいるということだ。状況の不確実性とは実は平等ではない

自分の経験を扱いやすくしておく、「ものわかり」

 実際、仮説を立てる際に行っていることは、大きく2つある。
(1) 自分の経験に目の前の状況を照らし合わせてみる
(2) 自分の中に経験はないが世の中にある理論やフレームを照らし合わせてみる
 前者は自分の経験を活かす方法で、仮説を立てやすくするためには自分の経験を扱いやすくしておくと良い。つまり、自分の中での理論やフレーム、原則を言語化しておくということだ。そうでなければ、刻一刻と判断や実行が迫られる日常において、せっかくの自身の経験を活かすタイミングがない。
 この言語化は、ふりかえりとも、むきなおりとも異なるため、明示的に別の時間を取るようにすると良い。コルブの経験学習モデルで言えば「抽象的概念化」であり、私は「ものわかり」と呼んでいる。

 ものわかりは、個人でも必要であるし、組織で行うことで組織としてのナレッジ、組織知を得られる活動になる。このあたりは「組織を芯からアジャイルにする」でも書いた。

 後者の「自分の中に経験はないが世の中にある理論やフレームを照らし合わせてみる」は、誰もが行っていることだろう。ネットや書籍、誰かの発表や話から仕入れた情報でもって、自身の状況にあてはめてみる。自分の経験をベースにしないだけに、手っ取り早い。確かな内容で、背景や文脈、状況が合致するならば成果も期待できる。
 ただ、自分の外にある理論、フレームをそのまま頼みにするスタンスを取ると、「仮説の立て直し」が行われず結果が出ない。例えば、理論やフレームを杓子定規にあてはめることしかやらない。あるいは、適用がうまくいかなかった場合に、その理由を試している理論やフレームのせいにのみしてしまう。うまくいかなかったその後に何をするかこそが要というのに。

 自分自身の中に、仮説を立てよう。自分で立てた仮説だからこそ、それをどう扱うと良いかも、自分で分かっているはずだ。 


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