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人には必ず変遷がある。ただそれが見えなくなっているだけだ。
前回のnoteでちょうど100記事目だった。
note最初の1投目はこちら。2018年1月8日のことでした。
2017年が境目ならば、2018年からは違う時代に入っていくことになる。この見方は既にワンテンポ遅いといえるかもしれないが、まあ、ミレニアム世代に入れてもらえなかった世代らしい見方といえばそうかもしれない。
今の自分は、方向性が見えてずいぶんとすっきりとした気分だ。これからの日々がまた楽しみな、そんな年にきっとなる。
内容を読むと2020年の自分の動き方との繋がりを感じる。ここから模索して、模索して、結果辿り着いた今。この2年noteに文章を書くとは、自分にむきあう時間だったのだと思う。
もっとも読まれた記事
「コミュニティは2回集まると死ぬ。」だった。
結論は、こうだ。
・人は、単純接触していないと、物事の優先度が落ち、やがて忘れる。
・人は、人に対してすらも、優先度が落ち、距離が出来ていく。
悪意なく。決めたはずの意思決定はうやむやになり、人との約束はやんわりと反故にされる。意識なく、だ。そこには、単純接触回数の多寡が影響しているとしか思えない。
この記事が、私のnoteで最も読まれている。noteで文章を書く甲斐を感じて、以降毎週noteを書くということが習慣になった。この記事がなければ、noteをここまで続けることはなかったし、おそらく内面との対話が不足し、「チーム・ジャーニー」は生まれなかったし、今ここに到れていたようには思えない。
チーム・ジャーニーではnoteでの考察が元になっている内容が少なくない。
次に読まれているのは「人の相談になんてのるな。」
「相談とは、相手の前提、状況を踏まえていなければ、その助言は、薬どころか毒になる」ということであり、それゆえに人の相談に乗ることほど厄介なことは無いということだ。だから、時々自分に言い聞かせる。「人の相談になんて乗るな(まともに答えられるのか?)」と。
ある研修での一幕をnoteにしたもの。このnoteは私もお気に入りの一つで、自分の考え方、感じ方をよく表している。人の相談になんて簡単に乗れるものではない。だからこそ。相談に乗ったら丁寧に考えたいのだ。
3番目が「アジャイルなのか、ウォーターフォールなのか」
アジャイルとは、ウォーターフォールとは、という定義以上に、いまからやろうとしているプロダクトの性質、それに取り掛かろうとしているチーム、関係者の状態、さらにプロジェクトを遂行する際の条件や制約、これらを鑑みて、どうやるかを決めることが重要だ。アジャイルか、ウォーターフォールかという捉え方では解像度が低い。2項対立では解決できない。
「2項対立を越える」は、私の一つのテーマになっている。これまで、2項対立で解決しようとしてきた様々な歴史(技術領域においては珍しくないアプローチ)。一定の結果は出せてきたかもしれないが、宇田川先生の言葉を借りれば、「技術課題」は解決できても、「適応課題」には対応できない。
心に残っている記事
読まれているかどうか関係なく、私自身が心に残っている記事は以下のとおり。
通知を切る。
通知一つとっても、画一的な使用方法というのでは、個人に合わない。個々人の性分や生活にあったプロダクトの振る舞いができれば、もう少し生きやすくなるのではないか。プロダクトをつくる上で、人に寄り添うとはどういうことなのか。まだまだだと感じた。
初期の頃のnote。私はいまだにあらゆる通知を切っている。その方が自分の性分にあっている。通知ではなくて、自分から自分のタイミングで取りに行く。私のようなせわしなくて、気にしたがりの性格だと、それでちょうど良くなる。
「水曜日の23時を守れ。」
水曜日の23時がGoogleカレンダーの更新メッセージと被って非常に不便な思いをしていた(このメッセージがまたなかなか消えないのだ...)のが、今朝方解消されていることに気づいたからである。更新メッセージが消える速度が以前に比べて劇的に早くなったのもさることながら、閉じるボタンまで実装されている!
これも個人の習慣の話。こういう「気がついていないうちに、自分の思考や行動に方向性を与えている現象」についての気づき、考察が好きなようだ。
「チームファーストがプロダクトを殺す。」
状況として理解できるようになるのは「プロダクトファーストの局面で、チームファーストの方針を取っている」時に生じる、成果への期待と実際のギャップである。チームとして間違ったことはしていないのに、思うような結果がついてこない、という状況に対する説明ができるようになる。
「自分たちが気づいていないうちに、思考や行動に方向性を与えている現象」に対する新たなプラクティス(習慣)には、みずみずしさがある。新たな概念を発見したときの喜びを表現するのが、私にとってのnote。
「正しいものを正しくつくる」というヒロイズム
われわれは何のために専門性を自分たちに宿し、磨くのか? その答えは、ヒーローになりたいという、いつかの思いにまで辿り着くのではないだろうか。そう。その回答は、自分たちの内側だけではなく、外側にそもそも向けられるものではないだろうか。だって、世界を救うんだよね?
我ながら自分の今ここの行動に符号していて、自分なりの段階を踏んでいっているのが分かる。こうした自分の考えや行動の変遷が辿れるのも、noteで書き続ける価値と言えるだろう。
100回分を見直すと、その時々の記憶が呼び戻され、気持ちもまた新たになる。あるときから毎週書き続けるようになって、既に70週近い。ここまで来ると書かないことのほうが違和感がある。これからも、淡々と書き残していこうと思う。