2つの時間帯を使い分けて、「あいまいさ」をマネジメントする
想像すらついていないところに、私達が辿り着くことはできない。掲げたビジョンが指す状況、状態がどのようなものか。もし言語化できないとしたら、私達は本当のところどこへ向かいたいのか分かっていない。
今までにはない方向へ踏み出すのだとしたら、その先の具体的なイメージを持つことは難しい。明確なありたい姿を表現することができない。だからこそ、探索的な活動が必要ではなかったの?
そう、分からないからこそ探索が必要で、その重要性についての理解は明らかに増している。ひところに比べると、探索と適応、アジャイルが組織に必要だという考えが広がってきているように感じている(こうした傾向は心を強くさせてくれる)。
一方でその結果、あいまいであることのエクスキューズに、探索やアジャイルというワードが利用されている状態も目にするようになった。いや、明確なエクスキューズとしてだけではない。あいまいで気持ちの悪い状態に、一定の安心感を与えるために、裏も表もなく用いられもする。人が動いていくためには、何らかの拠り所が必要なのはもちろんだと言える。
しかし、どこまでいってもあいまいで気持ち悪いままだと、人は取り組んでいることに疑念を抱きはじめるし、その方法にも疑問を投げかける。「アジャイルで本当に大丈夫なのか?」と。もちろん、ただ悶々とする状態が続くようであれば、結果も出ない。やがて、人々は諦めてしまうかもしれない。
探索は必要、だがいつまでも曖昧模糊だと人も結果もついてこない。
状態を2つに分けて捉えよう。完全なる探索の時間帯と、一定の目標をおいた時間帯の2つだ。
この両者を使い分ける。今どちらの時間帯なのか、どちらの時間帯にするのか、意志を決める。後者の時間帯であれば、ひとまず辿り着きたい目標周辺についての状態や算段について解像度を高めることができる。分かりやすい活動になって、確かな進みを感じ取ることもできるようになる(あるいは進みが足りないということにも)。
もちろん、そもそも目標に確からしさが無いにも関わらず、気持ち悪さから逃れるために目標を正しくしてしまう問題が一定の目標をおくアプローチには潜在する。こうした事態に陥らないように、方向性の言語化と共有のために「インセプションデッキ」を、また方向性自体を一定間隔で見直す「むきなおり」を習慣として持つようにしたい。
探索し、その結果から次のフォーカスを決める。フォーカスしたら、具体的な進みが得られて、分かっていなかったこともだんだんと分かるようになる。その先で、また一定の探索が必要になるかもしれないし、フォーカスを次々と繋いでいけば良さそうだということが見えてくるかもしれない。そうやって、私達は旅をする。