「Do」でも「Be」でもなく、「BeCome」なアジャイル
「アジャイル」と言った時に、それは「アジャイル開発」のことなのか「事業開発のためのアジャイル」なのか、「開発以外も含めた仕事の進め方としてのアジャイル」なのか、それとも「組織運営のためのアジャイル」なのか、引き続きちょっとした混乱がある。
「アジャイル」を抽象的概念(すなわち「探索」と「適応」)として見直したとき、それはあらゆる営みに通じるものになる。ゆえに、先のどれにでもあてはまる。ここがどうしても他者と、チームと、組織と、理解をあわせづらい。
「構成概念」という考え方がある。ある状態やメカニズムを説明するために作り出された概念のことである。身近な例で言えば「天気」とか「景気」がそれにあたる。「天気」という実体は存在しないが、「天気」という概念があることで私達は「良い天気」「悪い天気」と状態を評価し、他者と共有することができる。
確かにアジャイルは開発から端を発したものであるが、現代においては「構成概念」としての側面を強調し扱ったほうが収まりが効きやすくなるのだろうと思う。いわゆる、Doとしてのアジャイル、Beとしてのアジャイルという表現がイニシエよりあるように、最初期の段階からBe=状態を扱う概念としての理解が根底にはある。
アジャイルを構成概念として見ることで、「ある営みをアジャイルにする」「アジャイルな度合いをみる」といった表現があてはまり、どのような営み(開発、事業開発、仕事、組織運営など)にも通じる共通言語に昇華することができる。
ちなみにアジャイルを「手段」としてのみ見ているかたにとっては、Beとしてのアジャイル云々を言い出すとやや気持ち悪さが出てくるはずだ。そんな人のためのnoteはこちら。
さて、こうして状態を扱えるようになる上で、さらに感じるのは「Beとしてアジャイル」という言葉の軽さである。「Be」にたどり着くのは、簡単なことではない。「今日はじめて、来週にはアジャイルです」というわけにはいかない。それがチームだけではなく、組織ともなるとさらに遠くなっていく。ゆえに、「アジャイルチーム(自己組織化されたチーム)」とか「アジャイル組織」という言葉に私は一定の違和感を覚える。そんな簡単なもんじゃねえよ。
もちろん、Beになることは遠いが、Beを目指すことはほぼいつでもはじめられる。むやみにアジャイルを遠くにおいて拝みたいわけではない。アジャイルにむけて動き出すことは誰にでも、いつでもできる。
Doでも、Beでも、あてはまりを感じにくいとしたら、なんだろうか?私は「BeCome(なる)」なのだと思う。「俺たちはアジャイルになる!」と言えば目指す宣言であり(宣言は誰にでもできる)、その過程のどこを取り出しても「なっていく、なっている」という状態であると言える(その度合いは様々)。
そんなわけで、しつこく「アジャイル組織」ではなく「組織アジャイル」と呼ぶようにしている。アジャイルな組織というBeにたどり着くことは時に途方もない遠さであり、せいぜい私達ができること、言えることとは「組織をアジャイルにしようと動き出す」「アジャイルな組織になっている」だったりするよね。あるために、なろう。