「プロセス」としてのアジャイルなのか、「アティテュード」としてのアジャイルなのか
いま、組織と仕事について探索と適応の取り入れが必要であるということ。この語りを日々繰り返している。具体的には探索と適応をまとめて、「アジャイル」と呼び、アジャイルへの形態変化を組織の中の人々と一緒になって取り組む。アジャイルの根源にあるソフトウェア開発の世界だけではなく、開発を越えて組織内にアジャイルという概念を手渡し、伝える。これがこの数年のライフワークになっているし、より広く捉えると20年にわたり向き合ってきているとも言える。
新たな習慣についての語りは、必ず一定の反論に直面する。
「XXX のことなら、もうやっている」と。探索も適応も日々やっている、アジャイルなんてもうやっているよ、と。
だが、多くの場合において、こちらの意図する「アジャイル」と一致することは無い。マーケティングや営業といった、正しく探索が必要な領域においても。それどころかソフトウェア開発においてもだ。
マーケティングにおいて、状況により施策の優先度が変わるため、アドホックに対応する、ことが「アジャイル」なのか。
営業において、顧客が何を求めているか丁寧にヒアリングし、顧客に寄り添った対応を取っていく、ことが「アジャイル」なのか。
ソフトウェア開発において、タスクを細かく切って、短い期間を反復させる中で五月雨にひたすらタスク消化していく、ことが「アジャイル」なのか。
いずれも取り組む内容を否定するところではない。むしろ、たしかに「行為を柔軟に変えていく」という意識は一致するところだ。
だが、ことさら「いま、組織と仕事について探索と適応の取り入れが必要である」と強調する文脈における「アジャイル」は、その視座自体が異なる。ここで置いている視座は、「いかに変化を作り出すのか」ということだ。
組織、事業、個々の仕事において、いかに変化を作り出すのか。これまでの延長線ではなく、これからに向けて何が価値があり、意味をなすのか。未開、未知の領域へと踏み出していくための探索、適応。それは単にタスクマネジメントやプロセスに対してのみ言及しているのではない。変化をどう捉え、どうアプローチしていくか、という態度(アティテュード)にあたる。
(なぜ、変化が必要なのか、という背景についてはここでは割愛する。それはもはや改めて語るまでもないことだから)
プロセスのアジャイルなのか、アティテュードのアジャイルなのか。どちらに向き合っているのか、見分けるためにはどうすればよいだろうか。問おう。
・行為として、「"これまで" から変えることは何か、変えたことは何か?」
・結果として、「"これまで" のままでは得られなかった成果、価値は何か?」あるいは「新たに何が分かったのか」
変化を作り出すという文脈であるならば、行為のレベルでも何らかの違いがあるはずだ。そして、その結果に目を向けて、そこには何らかの「発見」が伴うかどうか。
いつも通りの想定内の結果であるならば、それは意図するものと違う。おそらく「改善」なのだろう。ダメなのではない。ただ意図する変化とは違う。
「顧客満足のために、顧客に向き合い、よりそうコミュニケーションを行い、ビジネス上の成果をあげる」というのは、言葉としては何も間違っていない。だが、置いている視座によっては的外れになる。
私達はそんな難しい局面に居るということだ。
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