自分から「自分」という主語を引き剥がして、観ることができるか
仕事柄アジャイルについて話すことが多いわけだが、その反応には様々ある。伝統的な組織で話などをさせて頂くと、ある種のステレオタイプ的なコメントが返ってくることがある。
アジャイルといえばスプリントを繋いでいき、回転をイメージとして抱きやすい。その様はまさに、動的で、ともすると慌ただしく、くだんの足が地につかない感覚を想像するのだろう。その気持ちは分かる。
分かるので、そうですよね、ちょっと難しさがありますよね、といった具合で受け止めてきている。ただ、こうしていただく反応を積み重ね積み重ね、そっと自分の胸の奥にしまい続けてきて、一つの気づきにたどり着いた。それは「あなたの足のほうが地に根を下ろしすぎなのではないか」ということだ。単に嫌味を思いついたとかそんな話ではない。
こうした反応を返してしまうのは、自分から「自分」という主語を引き剥がすことが上手くできないからではないのか。自分は自分、自分の置かれている状況を前提に考える、通常運転としてはそうだろうけども、そのスタンスでは上手く状況に対応できないことが出てくる。
特に自分の経験したことがないような、「今の自分」の理解を越えているような、そういう事案に直面した際に黙殺するか、否定しかできなくなる。
一旦自分の想像できる範囲、見える視界を脇に置いて、その上で耳目に入ってくる事案を受け止めてみる。もともとの自分という主語では上手くさばけなくとも、自分とは異なる文脈ではありやなしやを考え巡らすことはできる。
そうして受け止めてみると、自分とは関係ない事案であろうと思っていたことも、理解が進むことで自分の世界との接点を見つけられる可能性もある。そうやって、われわれは自分の世界を広げてきたんじゃなかったけ?
自分の視界の存在を意識し、着脱可能にする。そんな行為は、組織とかプロダクト作りだとか、そういった文脈では前提に置くことであるし、もっというと日常をうまくサバイブするために必要なこと、ですよね。アジャイル云々以前に、そもそも自分という主語を使いこなせることが仕事を上手く処理していくいしずえにあたるのではないか、というお話。