仮説キャンバスは全体に対するセンター、芯
このところ、またこの言葉を繰り返すようになっている。
「まず、仮説キャンバス作りましょうか」
仮説キャンバスを作るところから話は始まる。正確には、"話を始める"。キャンバスを書こう、話はそれからだ。
20枚、30枚のプレゼン資料を読み解くことに時間をかけるよりも、仮説キャンバスをさっそく相手と一緒に作ったほうが早い。何しろ相手は、テーマに対する20枚、30枚分の知識がすでにある。
こちらからは要約の仕方(これが仮説キャンバス)を提示できれば、ベストな協業が始められる。私が20枚30枚の読み解きを行う時間も、相手が初見のキャンバスの理解にあてる時間も、必要ない。双方の説明に時間をかけることなく、ほぼいきなりで仮説キャンバスを書き始めるほうが生産性は高い。
もちろん、事業やプロダクトの全容を詳らかにするのには、仮説キャンバス一枚では収まらない。それは20枚30枚の資料であっても同様だ。どこかで、"全体" を収めるための範囲を決めなければならない。「全体像」という言葉を使いつつ、実際にはそこそこ手の届く範囲で、重要性の高そうなところを書き表す、というのが私たちが言う「全体」なのだ。
当然、その境界はあいまいで、人によっても変わる。20枚30枚の資料を書いたとしても、人によっては「全く不十分」という見方も有り得る。だからこそ、要所を捉えるための共通の枠組みが必要になる。これで十分、要所を表せている、と言えるための見方、観点を揃えなければならない。仮説キャンバスはその役割を果たすためのものになる。
そう、仮説キャンバスは全体に対するセンター、芯にあたる。ここに事業やプロダクトの特徴が最も現れていることになる。筋が良いとか悪い、といった表現があるが、仮説キャンバスを書き表すことで、まさしく筋が見える。仮説の一本線(「正しいものを正しくつくる」参照)が繋がっているかどうかで、最初の筋が見える。
さらに一本線が描けていたとしても、課題やビジョンに広がりがあるかどうかで事業の奥行きも想像できる。事業の最初の入口となる課題解決は望めたとしても、それで終わり、次の展開が描けない、というイメージがついてしまう。
仮説キャンバスに表現されているのは、課題解決の構造だけではない。目的やビジョンにもっとも強く現れることになるが、仮説キャンバス全体でもって「世界観」を示している。なにを、あるいはだれを、どのような状態、状況にしていくのか。そして、なぜ、それを望むのか。つくりたい世界をどのように見ているのかが現れている。
ゆえにキャンバスを見たときに、事業やプロダクトとして成り立つかどうか、という評価とともに、この世界観に共感するか、も湧き上がってくる。ビジネスは成り立ちそうだが、方向性にはあまり興味が持てない、という感想を持つことがある。そうした事業案は、どこかで勢いを失っていくことが多いように思う。