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「どうありたいか」と「どうするべきか」と「どうしたいか」の間にある三つどもえ

 「それは、アジャイルではない」「アジャイルがやりたいわけではない」このあたりの問答は時折あるだろう。こうした問答に突きあたったとき、たいていの場合、ムードはぐんにゃりとしていく。対話するどちからがやりこめられる、またはやりこめられないように抵抗しはじめる。心中には波風が立ち、気もそぞろになっていく。

 何が起きているのだろうか?

 「どうありたいか(目的)」と、「どうするべきか(方法)」と、「どうしたいか(意志)」は三つどもえになりやすい。この3者で陣取り合戦を行っているようなものだ。その過程で、どこかの陣営が敗れていき、決着する。どこかに嫌な後味が残る。

目的と方法と意志の三つ巴

 目的と、方法と、意志、この3者の間には一定の力関係が働く。どのようなテーマ、ケースにもあてはまるわけではないだろうだが、たいていの場合、次のような関係が生じる。

「アジャイルがやりたいわけではない」
目的 > 方法。方法は、目的の前では脆い。アジャイルが「手段」として扱われたとき、アジャイルな取り組みは追いやられる。

「それはアジャイルではない」
方法 > 意志。こうありたい、こうしたいという細やかながら奮い立った勇気は、しかし、「本来はこうあるべき」という専門性の前で打ち砕かれる。

「あるべき姿が描けているわけではない、でも私達はこう始めたい」
意志 > 目的。力関係上最強と思われた目的も、今や、各々の「思い」の前には為すすべもない。良いかどうかではない、思いが大事なんだ、と。

 こう仕分けると、「アジャイルは手段ではないか、目的 > 方法は当然だろう」と思われるかもしれない。こと、アジャイルに関しては、そうとも限らない。

 ということで、私達は、目的、方法、意志の間でうねうねとし始める。そう、この3者の間で、いついかなるときも正解となる絶対性があるわけではない。 「どうありたいか」と、「どうするべきか」と、「どうしたいか」は、常に動く。局面に応じて3者の判断を行い、もっとも自分たちの狙いや思いに適した関係をつくる。

 どれか一つに絞らないからこそ、状況に対応できる。「方法」に心を奪われすぎないように、「目的」の正しさに取り憑かれないように、「意志」がすべてと安易な肯定に偏らないように。

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