「まあ何とかやれた」 からも学びを引き出すふりかえり
「ふりかえり」を繰り返していると、段々と「意見があがらない」「表出が少ない」という状態が続くようになることがある。Keepも、Problemも、概ねこれまでの派生のものだったり、それほど新鮮味のあるものではなかったり。中身は頑張ってひねり出した、という具合で、取り立てて扱うほどでもないように感じる。こうなっていくと、ふりかえりの意義が段々と感じられなくなってくる。
実際のところ、表出が少なくなっていくのには様々な要因が考えられる。ここでは、その一例として「ふりかえりの題材になりうる結果、所感があるものの、個々人の中で閉じたままで挙がりきらない」という事態を扱いたいと思う。
つまり、個々人の中でいくつか思うところがあるものの、Keep、Problemなど目に触れるものとして現れてきていないという状態だ。
「まあ何とかやり遂げた」「良くも悪くもない」といった度合いの所感は、個々人の中で閉じて終わってしまっていることがある(「まあなんとかやれているレベルなので、Keepでもないし、Problemというほどでもない」)。KPTを素直に出すと、「やったこと」「その結果」に対する個々人の「解釈」がいきなり出てくることになる。表出しない世界の中で、何があったか、起きたかは他者からは見えない。目えないものは、広げることも深めることもできない。
実際には、「まあ何とかやり遂げた」「良くも悪くもない」も学びに繋がりうる。そのままでは取り立てて言及するほどでもないと思えるものであっても、「より上手くやるには?」「もっと良い結果を生むには?」と視座を少し高めた問いかけを行うことで、平凡と思える結果が「次の成長」への手がかりになりうる。
そう考えると、そもそも「やったこと」から挙げるようにする、「やったこと」について当事者だけではなく他者からのフィードバックも交えるようにする、といった工夫が考えられる。あるいは絞り出し切る狙いで、そもそも表出する「数」を求めるという方法もある(「各自、少なくとも10枚の付箋をあげよう」など)。
まず、「見える」ようにする。そこから、他者の、チームのいくつもの見方によって、広げる深めるを促していく。ふりかえりの価値はみんなであげることができる。