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「アジャイルとして合っているか?」 なのか、「アジャイルで合っているか? 」 なのか
「アジャイルにいこう」という心意気は良し、だが、アジャイルの様々な「作法」が本来の意図とどう繋がるのかがよくわからない。よくわからないけども、アジャイルの精神に則り、「やってみよう」ではじめてみる。まあ、上手くいかない。上手くいっているように思えないから立ち止まる。立ち止まって、考え直してみる。そもそも、「アジャイルにいこう」で期待していた意図とは何だったんだっけ。おや?
最初にある「作法が意図通りか?」について精査するのは難しい。「作法」そのものが新しいためその是非がよくわからないということもあるが、「意図」の解像度が足りていないという背景もある。
たいていの場合、意図は「ビジネスアジリティをあげたい」「変化が起きても早く対応できるようにしたい」といった心意気レベルから始まる。この粒度で、実際の行動や、作法が適しているかを判断するのは飛びがある。ビジネスアジリティとは何か? 変化とはどういうものか、早くとはどういう具合なのか? 行動とフィットできるように言語を得ていきたい。
自分たちが何を意図しているのか、が実のところよく分かっていない。だから、「やってみる」中で意図自体を学んでいく。自分たち自身を知る。そうして、行動や作法があっているかどうかをようやく判断できるようになる。少し図解してみよう。
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実行の過程と結果から、ふりかえりをする。対象は2つある。「作法通りになっているか」「意図通りになっているか」だ。
「作法通りになっているか」は、カイゼンのためのふりかえり。そもそも、想定した動きができているのかを点検する。もし動きがおかしいようであれば、それは期待する結果にならないだろう、と。早速次のイテレーションで正していく。
「意図通りになっているか」は、作法通りにはなっているが、その上で過程と結果として、意図と整合しているのかを見る。おそらく「われわれはなぜここにいるのか?」という問いから始まったこの活動が、そのWHYに対応したものになっているか。自分たちの目的の状態と方向を問い直す所作として「むきなおり」を行って確かめる。
後者の問いまで行うことで、自分たちの意図を学び、自分たち自身を知ることができる。余談ながら、こうして時を重ねることで意図は詳しく、詳しくなっていく。それはややもすると目先のことに寄りがちになる。ゆえに、視座を引き上げるために「理念」や「パーパス」といったそもそもの意義を言語化しておくということに意味が出てくるのだ。
意図の輪郭がはっきりしてくると、作法への問いも具体的になる。作法は自分たちの意図を実現してくれるものになっているか?
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最初から、作法を問うとてもあまり効果的ではない。繰り返すが元となる意図の理解そのものに深まりがないからだ。とすると、最初の作戦も見えてくる。いかに意図に早くむきなおりするか。最初のイテレーションを終えたときに、むきなおりを試みる。「最初なんだし、まだよくわからんよね」というのはもっともだが、同時にただのexcuseでもある。では、どうすればわかるようになるのか? 私達は何からでも学びを得ることができる。分からないことを楽しんでいこう。