オルタナティブを取り戻すための工夫
以前六本木で仕事をしていた頃は、日夜会食を行っていた。六本木というとパワーワードで表現すると、さぞかしいわゆる六本木感のある店だったのだろうと想像するかもしれないが、正確には六本木一丁目のほうだったのでそうではない。
むしろだから日夜の利用も出来ていたのだ。奇しくもコロナ禍と会社から降りた時期がほぼ同じだったので、以降東京に行くことが減って久しい。人との交流が何よりも癒やしになっていた、懐かしい日々。
一方で、今の生活が手放せなくなっている、というか完全に今のほうこそ自分の本来の生活なのだとさえ都合よく認識するようになっている。東京に出突っ張りのときには気づかなかった家族との時間という、ときの代償。どんなときも仕事の優先を絶対としてきたときに比べたら、まさしく、まるで世界が入れ替わったかのようだ。
東京に行かない選択をしたことで、得られるようになった時間のあて先は広い。一人であるいは妻と、手ぶらで海岸をただ散歩する、そんな事しようなんて以前なら全く考えつかなった。今は日課となりて、おかげで10年くらいまえの体重に自然と戻ってきている。
この手の話は、このコロナ禍の状況では何も珍しいことではない。ただ、この図と地の入れ替えのような状況の転換があまりにも自然に行われていて、何の疑いも持たない自分がいることは興味深い。自分の選択が絶対的で、結果として他の選択なんて取りようがないと思っていた自分がたしかに居たのに。
必ず、自分の選択に対するオルタナティブは存在する。しかし、そのことに全く意識が向けられなくなる特徴が、人にはある。やがて、オルタナティブなんて最初から存在しなかったように認識を固めて、ゆるぎなくなる。人は、自分のやっていること、作っている状況にこそ最も影響を受けるのかもしれない。
ということは、人が自分の選択肢を広げていくためには、何か突拍子もないことをいきなり思いつく必要などはなく、自分がどこにいて、何をしているのか、そこにどんな意志があるのか、そして他にはどんな意味が考えられるか、問い直すだけで、オルタナティブが浮上してくる可能性がある。
一旦回り始めた弾み車を途中から止めることが難しいように、一度持ち得た人の認識とは加速度的に固定化していく。この人の性質に何の手立てもなく抗していくのは意外と困難である。だから、スクラムというのはよく出来ていると思う。
自分がどういうオルタナティブを持っているのかを可視化し(バックログ)、思い出したときに考え直すではなくて常に問い直す機会をあらかじめ設けておく(スクラムイベント)、そして一人だけの視点では気付け無いことも見えるようになるために他者と取り組む(スクラムチーム)。
つまり、「オルタナティブを見失う」という人の持っている特徴を仕組みで補完する。見失う事自体を防ぐことはできない。見失っても、取り戻せるように、人固有のちからとは別のところで担保する。
と、考えるとスクラムとはソフトウェア開発だけの話ではなくなる。