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「いまそこ」をどれほど分かろうとしたのか?
「屏風のトラ」の例について、いつも揶揄しながら話している。
「一休さんに出てくるあの屏風のトラと同じですよ。矩形のパワポの中にえげつない分量のオブジェクトと文章の切れ端を詰め込んで戦略と称するアレです。絵としては立派ですが実行性に乏しく、本当にやろうとすると炎上する。現実で向き合うとトンチではどうにもならないやつです」といった具合で。
パワポの絶望的な厚みや密度に辟易することが多いので、そのアウトプットの存在イメージが強い。だが、実際には「屏風のトラ」はどこにでも存在する。たとえパワポにはなっていなくても。
屏風のトラの問題はいくつかの要因をはらんでいるが、その一つに「状況の無理解・無視」がある。要は、いまそこの状況が分かってもいないのに、問題解決に勤しもうとするところにある。置かれてる状況を深く理解しないままに、問題の解決を具体化しようとすると現実とのギャップが大きくなる。てんで、ちぐはぐな企み、試み、挑みとなるわけだ。
そんな勤しみに持ち込まれる問題解決とは、たいていの場合「世の中でよく言われているもの」あるいは「自分の得意な解決手段」となる。状況が分かっていない、つまりそこで本来的に何をするべきなのか、またその背景にある前提や制約が分からないということだ。
そこで、無理矢理にでも問題解決を講じようとするならば、世の中での例か、自分の得意技しか手立てがない。
ここでいう「自分の得意技」の主語は様々だ。自組織内の誰かかもしれないし、組織の外部の専門家かもしれない。後者は特に、相手組織の「いまそこ」が分かっていないこともあり、時に凶暴な「トラ」になりやすい。単なる自社製品、自社サービス、自社手法の売り込みとは見分けもつかない。
DXにおける「屏風のトラ」は、世の中の例と、外部からやってきた専門家の得意技をあわせて練り込んだものとなる。手がつけられなくなるわけだ。
自組織にあうかどうかは分からないけども「まずはやってみよう」というのは大いに結構。まずこのメンタリティがなければ、技術課題だろうと適応課題だろうと前に進まない。伝統的な組織ではここに欠けることが多く、最初のつまずきを得ることなく、問題解決自体が始まらない。
だが、問題は「いまそこをどれほど分かろうとしたのか?」という問いに答えないまま、手近な解決策を手にしてしまうところにある。「よくわからないから」は「分かろうとするのはめんどくさいから」もしくは「いまのことなんて分かるに値しないから」というより強力なバイアスであったりもする。
「よくわからないから」は、単なるエクスキューズ(面倒だし、こうしたい、こうあってほしい)であることが多い、結果的に。
そうした状況の無理解、無視はたいてい結果に繋がらない。組織がいまそこで取り組んでいることは案外必然性があり、現実との整合性があり、結果も伴っているところがある。それらを完全に無視して、状況を一段より良くする、高める、ミラクルな解決策があれば苦労しない。それほどの特効薬はそう簡単には存在しない。
誰かが持ち出した「こうやるべき」は何のためものなのか。よくよく見極めたい。