丘の手から 石仏/石碑
一昨年末から今年の春先にかけて
コロナだか、悪性インフルだから
37度〜39度の体温を1ヶ月ほども繰り返す状態を2度経験し
激痩せし、今も全身倦怠感の状態にあり、
これは原因不明だが
なぜか、脳出血の後遺症による右麻痺の状況も元にもどってしまった。
「右麻痺」の方はずいぶん元に戻ったが、
あいかわらず長い文章を読めないし、書けない状況にある。
集中力が続かないのだ。
「37度〜39度」の経験も辛かったし、もちろん、その後も辛い。
電車に乗るのも、駅に近づくのも億劫になってしまって
さりとて、リハビリ散歩は数日さぼると脚が思うように動かなくなってしまうので、結果的に「ご近所」を歩き回ることになった。
改めて歩いてみると、ご近所には「石仏」「石碑」の類がたくさん残っていることに気がついた。100は下らないだろうと思う。
中世から昭和にかけて。数百年のレイヤーが重なっていた。
上永谷や下永谷、東永谷などは旧永谷村、今、野庭団地がある「野庭」は永谷村の大字で「上野庭」「下野庭」に分かれていて、今の丸山台は、再開発された際に両者から新造された「まち」だ。
旧永谷村には「永谷天満宮」がある。
菅原道真の五男淳茂が播磨国に配流となった後に関東に下向して永谷郷の下の坊に居館を構え、道真公自刻の御尊像を奉祀して朝夕崇拝したことが、永谷天満宮のはじまりであるとされる。
室町時代には、川を挟んで、関東管領上杉氏の傍流である宅間上杉氏の居館もあったし、江戸時代になると将軍家の庇護を受けて、浅草まで出張しての「ご開帳(神社は「ご開帳」っていわないか)」興業(「興業」はさらに不遜か)も許されていて、たぶん、それなりに豊かだったんだろうなと思う。
(実際、江戸に出張するんだから、江戸からの参拝客もあって、戸塚宿から「永谷天満宮」への道案内の石碑が残っている)
もちろん村のみなさんも堅実だった。バブルっぽい投機な発想とは無縁だ。近代以降もそうだった。
1931(昭和6)年の 永野村の村長 西木泰一さんの言葉
都市に都市にと先を争って走るときに、工業の行詰りは、農業立国に逆転せぬとも限らぬ。土地の開発と言えば曰く住宅地、曰くゴルフ場、曰く遊園地、曰く何々工場、甚だしくは花柳界等の招致がそれである様に思ふものがある。
自分はそんな不健全な発展は望まない方がよいと思う。望まなくても、自然に殖えて寧ろ取捨選択に困るであろうと思ふ。区画整理もせねばならぬ時も来よう。村道として開いた道が自動車道と変る時代も来るであろう。要するに之等は自然の所謂他動的の勢に任せて、今は只農業的に所謂自動的充実に全力を尽す時代であると自分は信ずる。
たいていの石仏、石碑は、「講」、つまり、数人から数十人の村人有志で建立されているものが多い。つまり、このあたりは、堅実だからこそ、持続的に「豊か」だったんだろう。二極化も進んではいない。みなにそれなりの安定した暮らしがあったようだ。
こういう文化資本の積み重ねがありがたい。
ひとつには、各村が、人口としては案外コンパクトで収量が多く、その上でバラバラな領主に小規模な「飛地」として支配されていたから、実際の経営は「村」に「丸投げ」で、厳しい取り立てにもあっていなかったということによるのではないか。だから宗教的な祭事を理由に「これは宴会をやる場所の目印だったな」と思うものも多いし、「咳を鎮める神様」なんていうのもある。江戸時代になると、二人の女性が「札所巡り」をして「その記念に」というものも。今なら、記念の「写メ」なんだろうな。
野庭は、最初に和田義盛の一族が入植して、その後「和田合戦」があって、今の野庭団地のところにあった「城」が落ちるけれど、その後は平和で、東慶寺の寺領になったり、後北条氏の血族が住んだり、小田原落城の後には豊臣秀吉の領地になったり、そこに小田原落城で逃れてきた一族が帰農定着して、当時としては新しい「農法」を持ち込んで、米も増産、野菜も増産で「商品作物」にも恵まれ、横浜開港に際しては、いっとき「絹」もつくっていたという、やはり豊かな土地柄だった。
(江戸時代の近郷の「米」の平均生産量は7.8石なのに、野庭の生産量は10.6石。しかも野庭は、当時の1村=80〜100戸に対して、上野庭、下野庭を合わせて50戸足らずとコンパクトな村。たぶん農繁期にだけ手伝ってくれる人を雇うとか、農業経営も集約的だったんだろう)
横浜も都心になると、コロコロと主幹産業が入れ替わり栄枯盛衰が激しいために、四代、家が続くことも珍しいという。だけど、上永谷、下永谷、野庭、丸山台には、数百年とこの地に根付いた家も少なくない。
戦国時代は後北条氏を迎え撃った土豪のひとつで、江戸時代を通じて酒屋さんという家が今はコンビニのオーナーだったり、薬局にかつての笹毛城の城主の名前があったり、小田原落城で逃れてきた一族も今も健在だし、和田さんもいる。
そんじょそこらの時代の変化にはびくともせず、世知辛い支配者がいたわけでもなく、長い間、安定的な地勢だったんだろう。
1931(昭和6)年の 永野村の村長 西木泰一さんの言葉
都市に都市にと先を争って走るときに、工業の行詰りは、農業立国に逆転せぬとも限らぬ。土地の開発と言えば曰く住宅地、曰くゴルフ場、曰く遊園地、曰く何々工場、甚だしくは花柳界等の招致がそれである様に思ふものがある。
自分はそんな不健全な発展は望まない方がよいと思う。望まなくても、自然に殖えて寧ろ取捨選択に困るであろうと思ふ。区画整理もせねばならぬ時も来よう。村道として開いた道が自動車道と変る時代も来るであろう。要するに之等は自然の所謂他動的の勢に任せて、今は只農業的に所謂自動的充実に全力を尽す時代であると自分は信ずる。
ありがたい。
石仏、石碑たちも、面的な住宅開発があり、幹線道路の整備もあって、もと居た場所を追い出されてしまったものも少なくないが、神社仏閣だけでなく自治会館の敷地に専用のスペースをつくって大切に保管されている。
何の影響も与えていないように見えて、この石仏や石碑と生きてきた人たちの穏やかな気持ち、熟成された空気は、このまちに流れるおだやかな時間の源のひとつなんだろうと思っている。
まさに「目にはさやかに見えねども」だけど。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?