心を掘ったり、言葉を開いたり。
少々仕事の方で盛り上がったことがあり、昨日今日と、個人のnoteに久々に書き込んでいた。
しかしまあ、我ながらよく飽きもせず、日々こうして書いてるものである。
いつの日か、もう好き勝手書こうと決めて以来、だいたいいつも、8割がたは自分に向けて、残りの2割はひさとしメンバーに向けて書いているんだけど、今朝、外に向かう、つまり、一般の読者の誰が読んでも届く文章を書こうと思って書いた。これがもう、難しいこと。結構、癖がついてるなぁと痛感した。
でもなんか、色々新しい仕事をするなかで、情報を外に開く感覚がつかめてきたような気がする。説明でも、説得でもない。ロジックが通っていれば良いというものでもない。論文じゃないんだから。
あれっ、これ何だろうと、興味を喚起する情報のデザイン。必要なのはそういうことで、色気とか、そういう言葉がふさわしい世界。
ある意味、分かってもらうことは必要ない。分かりたいと思わせることの方が、よほど大切だ。楽しそう、とか、役に立ちそう、とか、乗り遅れたらやばそう、とか。相手の無意識に語りかける。まだ見ぬ相手の立てているアンテナに届くように発信する。あ、この人は、自分にとって価値のある何かを持っている、と感じさせる。
それは、いつもやってるみたいな、自分の心の井戸を掘る文章とは、全然違う。思い返してみると、このnoteを始めた当初は、開く文章と掘る文章、どっちにいくかブレていて、うまく開けないもんだから、途中から掘る方に開き直ったのだった。
開き直ったら、結構楽しいし、なんか、そっちにスイッチを合わせたら、いくらでも書けるようになった。書くことで発見できたことも多かった。
それを誰かが好いてくれたらいいけど、まあ、そうでなければなかったでも、別に構わないという、実にあっさりしたスタンスをとったのだった。変な執着も捨ててしまって、身軽になったから、書きたいことをいくらでも書けるようになった。多分、前よりも書くのが早くなった。
でも、なんか、昨日今日と書いた文章の差分を明確に意識したとき、あ、これからは、開いて行けそうだな、と、思った。開くためにはそれなりのネタは必要なんだけど、逆に言えば、それさえあれば。
いつかの松ライダー氏の言葉、ポップに生きるとは、この、コンテンツを外に開く感覚のことを言っていたのかもしれない。
言葉を外に開くことで、縁もまた広がる。閉じたら開いたり。掘ったり広げたり。外に開くということを身につけたら、これまでの人生とはまた違う新たな世界と出会える気がしている。
(ようへい)